あらためまして、皆さんはじめまして。
てらかどさんの夏の滞在地として、
すっかりお馴染みになりました、
秋谷亭の主、
西村アクィーラ風太朗です。
今回新たに秋谷亭から、
たまに出開帳させていただくことになりました。
秘蔵というほどのものはございませんが、
宗教学徒として、
日ごろの研究・調査・庭仕事の中で沸き起こってくる、
思考や感情、心象風景など、
脳内ではつづら折りに迷走したものどもを、
ずらずらずらとひきのばしては、
エッセイとして綴ってみようかと思っています。
すでに昨今てらかどさんの、
言葉の中にも表れた、
「吸って吐いて×2」など、
時には研究者らしからぬ、言葉ものたまいますけども、
ボクとしては、状況をサッとすくい取ったり、パッと切り取ってくれる、
公案の答えような、
そういう言の葉たちが、
実はいとおしくてたまらなかったりするのです。
というわけで、
今回はなぜに「アクィーラの草迷宮」なのかということと関連して、
「えんがわ」でちょっとだけ触れた、
「巻き込み・巻き込まれ」について、ご開帳致します。
泉鏡花の『草迷宮』って、
秋谷が舞台で、
さらにうちの大家さんちがモデルになってるということで、
以前から話には聞いてたんですが、
なかなか読む機会がありませんでした。
鏡花ファンのてらかどさんがうちにいらした際、
2冊持ってるからと、1冊分けて下さいました。
それが読んで驚いた!
主人公はボクと同じ「明」で、
同じ九州出身。
それで、その大家さんの持ち家を、
借りて住んでるという設定だったんです。
すでに、「巻き込まれ」てしまってました。
実はそんなことはちょくちょくで、
挙げれば限がないですが、
もうひとつだけご開帳。
ボクは修士論文で、
神様になったお巡りさん、
「増田巡査」を研究しました。
(「巡査大明神」増田敬太郎の詳しい話はまたの機会に)
増田巡査は熊本人で、
増田神社は佐賀くんだり。
どうしてこんな遠くはなれた秋谷の地で、
そんなマイナーな名前を知ってる人がありましょうか。
と思いきや、
どうしてどうして。
今のところに引っ越す前に、
住んでたおうちの大家さんが、
なんと増田巡査のご親戚!
てらかどさんには、
「物語を追い求め、
果てに自らその物語の中に、
取り込まれてしまうような、
まさに鏡花作品中の人のよう」
と評されながら、
研究者としてのボクのペルソナも、
案外そのような状況がお気に入り。
と言いますのも、
ボクの研究のモットーが、
「巻き込み・巻き込まれ」だからなんです。
まず「巻き込まれ」とは、
研究者として研究する際、
自分はどこかの高みにいて、
他人事のように観るんじゃなくって、
自分も状況の中に漂いながら、
同時に観察するという姿勢のこと。
酒井直樹という人が、
このようなことを言いました。
「観察者の発話の位置を問題とすることは、
対象は自然にそれ自体としてそこに存在するのではなく、
たとえ単に対象を記述する場合でさえも、
観察者の一定の参与を必然的に伴うのだということを自覚することである」
(『日本思想という問題』)
彼はここで、
理論に潜む政治性・イデオロギー性を指摘したかったんでしょうけど、
そういう議論は論文でするとして、
ここでのボクのお話は、
そういうアクロバットというか分裂状態というか、
そういった緊張関係の中に身をおいてることを自覚してないと、
なんか面白い研究ができないような気がするということなんです。
では、「巻き込み」の方はどうでしょうか。
そういう緊張関係の中にあって、
極力冷静に状況を分析しようとするだけでは、
「巻き込まれた」状況を単に「引き伸ばした」だけなんです。
いったん「引き伸ばした」ものを、
さらに「巻き込もう」とすること、
分析したものを持参して、また状況に積極的にかかわっていこうとすること、
そこまでやんないといけない気がしてます。
「吸って吐いて×2」で言うと、
「吸って」で、時代の空気や状況に巻き込まれ、
「吐いて」で、それを分析したり表現したりして引き伸ばし、
再度の「吸って」で、自分の分析や表現の中にも巻き込まれ、
最後の「吐いて」で、再度状況を巻き込み直す。
(あっ、そう言えばre-volutionて、
「再び―巻くこと」って意味でしたね。)
・・・・・・。
合掌
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