大学で「ビジュアルデザイン入門」という授業があり、今日が僕の担当する日だった。毎年その春に入学して来た新入生に対して、学科の教員・助手全員が1回ずつ交代で自己紹介的な内容の講義をすることになっている。この2年は、自分の最近の仕事や、これまでの代表的な作品の画像を持参のノートパソコンからスクリーンに投影しながらコメントしていくスタイルでこなしてきた。今年も、内容をさらに充実させるため昨年来の最新の仕事の画像を新たに追加しつつ、話しの流れをあれこれ想定し画像の順序を変更したり、パソコン上での編集作業に朝近くまでかかってしまった。当日、登校中の地下鉄の中でも話す内容についてあれこれ思いを巡らしていた。だいたい完璧に話しの流れが通ったなと思うとともに、果たしてこんな内容でよいのだろうか?との疑問符も浮かぶ。僕のキャリアを学生に紹介することがなにか彼等彼女等のためになるだろうか?過去の作品の画像を並べながら思考するとついつい内省的になる。まるで決められたストーリーを軽々と辿ってきたかのように自分のこれまでが歴史化してしまう。それでは僕がこれまで足掻いてきた足掻きが、伝わらない。僕はこれまでのその時、その時、考え、考えたが、それは今、画像を見ながら振り返って考えている考えとはとても違う考えを考えていたはずなのだ。言ってみれば、その時、その時、考えていなかったこと、考え切れなかったことの総体が、その時とその後を作って来ている。それはたった今現在でもかわらない。今も、考えるが、わからない。わからなくても生きているし、描いている。わからないままに身を投じて、足掻いて足掻いて、絵が生まれ、日々の暮らしが生じている。たった今現在の、考え切れないことによって確保される「自由」が、過去を振り返る考えの中には消失してはいないか? ……そんなことを考えているときにふっと、冷たいからっぽな空気が背中をつたって行った。ぎょ、っとした。「持ってない…忘れてる!」…朝までかかって準備したデータを入れたノートパソコンを僕は持って出かけて来ていなかった! うへぇ~。腕時計を見る。今から引返し、パソコンを取って来るとしたら……授業時間は半ば過ぎてしまう…。思い迷うまでもなく、パソコン無しで、画像なしで、素手で学生達の前に立つことが決定してしまう。うわぁ~。さてでは、なにをする? なにが出来る?
結果はこうだ。研究室に大小4枚の原画があったので、それを講義室に運び込み直接見てもらうことにした。同じく研究室に、4年くらい前のライヴペインティングで描きかけのままに残っていたF80号カンバスがあったので、それと絵の具類を運び込み、みんなの目の前で描くことにした。初めに当初から予定していたテーマについての話をした後、みんなを前へ呼び、カンバスを取り囲んでもらう。「それじゃ、これからみんなの出すお題を描きます」と言ってマイクを学生に渡した。最初の女子学生は「空を飛ぶもの」とオーダー。僕はメタリックホワイトの大きいチューブをそのまま絞りながら「鶴」を描く。次は男子学生のオーダー「自動車、ポルシェ」、ううむ、むづかしいな~。その後、「電信柱」「人魚」「プチプチ」「激辛ラーメン」「超スウィートなケーキ」とつづいた。どんな絵がどんなふうに出現したかは、その場に立ち合った学生、スタッフのみなさんと僕だけが共有したものだ。授業の始め、堅苦しかった講義室は、途中からはどこかの神社の夜祭の露店のような賑やかで、愉しく、いかがわしくも自由なな場に変質していた。あ、これが僕が「絵」に求めていることだったな、パソコン忘れてよかったなぁ、と思いましたとさ。カンバス等、大荷物の撤収は、いつのまにか現れた2年生の熱帯魚の様な男子学生たちが手伝ってくれてありがとう。「ビジュアルデザイン」だったのかどうかは別として、僕自身、大学での活動について新しい段階へ「入門」した記念すべき6月13日の1限だった。
画像は配布したレジュメ。今年のESTの広告画に、僕が4才時に描いた絵を重ねています。