2∞∞5年2月6日、薄晴、寒。アトリエにて雑務の後、楽市楽座の佐野キリコさんの一人芝居を観に川西能勢口からバスに乗ってHANAREという築200年にもなるという日本家屋をそのまま用いた不思議なギャラリー+カフェへ行く。
題目は「小説歌劇/桜の森の満開の下」坂口安吾作である。僕は下知識なしに朗読劇だと勝手に思い込んでいったのだが、そうではなくびっくりするようなチャレンジングなモノで畏れ入った。
以下に少々感想など。素朴に感嘆したことは二つ。
☆ 中編ぐらいのたっぷりとヴォリュームのあるテキストがするするとキリコさんの口から科白として止め処なく流れ出てくること。
☆ 同時にその約1時間半ぶっつづけで踊りのような振りが付いており、常に身体を動かしつづけながら動き回りながらの科白が息切れすることもなく朗々と響き、それが歌にまでなったりすること。
これは主にフィジカルなことへの単純な驚きだが、人間業とは思えない。特に、動きはことさらに大仰に見せないのだが実質かなりハードなものなので、その疲労は生半可なものでないと思われる。
無知で残酷な僕のような観客は、ずっと動いているとすぐにそれになれてしまい背景の様にあたりまえに感じてしまう。疲労を見せてくれればそれはそれで安心なのだが汗も疲労も全て内に秘めようとする実直さで、佐野キリコふぁんとしてはもう少しずるく演ってもらわないと身体が心配だ。
<演出上感心したこと。>
そのずっと動いているその動きは、ひとつひとつの科白やその時点での情景に即しているのではなく、僕の想像ではテキストのページに相当している。ページを繰る毎に動きが替わる=空気が変わる。
例えば人を殺めるシーンよりも少し前から、剣を振るう動きが始まってくる。これは演出家(西田シャトナー氏)の演出なのかキリコさんのアイディアか知らぬが、すごく不思議な効果を上げていた。
僕も今、芥川のテキストから絵本を構築していく作業の真っ最中なのでぴんと来るものがある。この振りは絵本でいえば見開きページ毎の背景の色とかタッチだ。
以前僕が深く関わった山の手事情社のメソッドにも近い部分があったが、キリコさんのこの振りも淘汰を重ねれば「型」になるだろう。
<不思議な感覚が芽生えたこと。>
登場人物である「男」「女」「もうひとりの女」と全体の「語り部」の4役をキリコさんは声色も換えつつ動きで繋ぎつつ流れるようにテキストの全てを放出しつづけるのであるが、そこにもう一人「読者」としか言い得ないようななにか透明な幽霊のような存在がふっと存在するのを感じる瞬間が何回かあり、これはこれまで体験したことのない瞬間だった。なんだろう? ぞくっとした。
<残された「?」>
というわけで佐野キリコさんのチャレンジには大喝采を送るとともに、では、この体験と、ひとり安吾のテキストを黙読するのとどちらが豊かな時空か?、という「?」は僕には残った。
物語の最後に主人公の女も、そして男の肉体さえも安吾の言葉は虚空に消し去る、が、それを語るキリコさんは明かりが消えようともそこに「在る」、その乖離をこの演出はそれほどには意識していないように僕には思えた。
消えないこと、役が終わっても役者がそこにいること、そこにこそ劇、芝居の凄さがあると僕には思え、ずるかろうと、あざとかろうと、テキストには出来ない「なにか」をひとつ挟んで欲しかった。
テキストの劇化は本当にそこがやっかいだと思う。今までで唯一成功していたと思えたのは、泉鏡花の「化鳥」を辻村ジュサブローが劇化したものだ。テキストは吉田今日子の朗読を録音で流していた。人形一体の一人芝居なのだが、人形と人形師の関係を舞台であざとく見せることによって、テキストと実体との乖離を上手く劇化していた。
色々勝手なことを書いたが、素晴らしいものを見せてもらい、なにかがくるくる僕の中で動き出したのだ。大感謝! 秋の楽市楽座もますます楽しみになりました〜
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