Today's Terapika寺門孝之です。

Back Number 20041026

 

 2∞4年10月26日、火曜、雨のち夜半雨上がる。

 さてと、ギャルリ・ムスタシュでの展覧会も終わり、9月来怒涛の様に同時開催してきた“DARKSPLASH”関連事業がひとまずは終了した。“DARKSPLASH”自体は10月3日で終わったのだが、その後もあれやこれやイベントが絶えることがなく、観る側にまわったり、コラボレーションしたり、濃い日々が終わらなくて、“DARKSPLASH”のことを振り返り総括するタイミングを逸してしまった。

 実をいうと、“てんらんかい”のページにも掲載しているように間もなく“unaの森”東京篇が開催されるし、その後も神戸・京都と展覧会が年内まだ目白押しで、振り返っている場合ではないのだが、今日は一応、“DARKSPLASH”をやってみた感想というか、自分なりの結論を区切りの気持として書くことにしよう。

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 “DARKSPLASH”を思い付いた中で一番の「キモ」は、なんといっても「同時」という感覚だった。それは、もちろん同時期に複数、それぞれテーマの違う自分の展覧会を開催しよう、ということでもあったが、最大の「キモ」は、自分が関心を深く寄せる、人、グループと歩調を合わせ、同時に作業を進め、同時にナニカやる、という体験の実験でもあった。

 今回、それは、長山現氏率いる楽市楽座、そしてmicさんとのシンクロ大作戦だったのだ。

 コラボレーション、というのとは違う感覚だ。一緒になにかするわけではない。互いにどこかが通底しているモノモノが互いを意識し合いつつ、時同じくして自分のことをする。ただそれだけのことなのだが、これが実に面白い体験となった!

 シンクロニシティ、という言葉がある。これは意味のある偶然の出来事の重なりをいう言葉で、「共時性」と訳される。自分が必要としている本が偶然書棚から頭に落ちてきたり、気になってる人と偶然電車で隣同士になったり、そんなときシンクロニシティが働いた、というらしい。

 僕は勝手にこれを次のように解釈している。

 この世界では一人一人個人が勝手にばらばらに生きられるのではなくて、その時その時のテーマのような事柄(イメージと言ってもよいかもしれない)を中心にチームが創造されて来る。

 テーマが発動されてくるとそれに見合った人々(チームメイト)にシンクロニシティが生じ、個人個人ばらばらだった「時」に意味のある偶然の出来事が差し挟まれ、同時にあるテーマに沿って生きている、という状態が生じ、創造されたチームメイト同志は「時を共に」生きている感覚を抱くようになる。

 もしそうであるのなら、意味のある偶然を待つのではなく、こちらから能動的に、深いところでテーマを共有し得るモノモノが、意識して時を合わせてしまえばどうなるだろう? もしかしたらなにか加速度的に面白いことになるのでは?という思い付き。

 だから今となってみれば、「同時多発」というよりも「共時多発」といった方がよかったのかもしれないが、とにかく、やはり面白かった。

 楽市楽座の「耳水」世界と、micさんの「元猫だった女性達」の語る世界、僕の4会場の絵とそれを巡って立ち上がってきた世界は互いに通じ合ったり、補い合ったりしながら、全てを通してみると大きな柔らかな物語のようでもあった。

 「テーマ」は大小、それぞれのココロのひだの数だけあるだろうから、そこで創造されるチームもめくるめくものとなり、この大きな「共時」の中で日々出遭った全ての方方が、僕にとって神話的な存在、であったのだろう。

 ある「テーマ」に沿って立ち上がる「チーム」の個人と個人が「共時」を生きるその結びつきを「縁」と呼べるとしたら、今回の様に「共時多発」でものごとを進めて行く方法は、「縁」のチカラを集めて有効に燃料として「創造性」に注ぎ込める可能性がある。

 縁の下の力持ち、ではなく縁の力の下で待つ(ぐわっ、意味わからんっ)だ。

 “DARKSPLASH”の進行の中で僕はそんなことを思っていました(笑)。そして会期が終了に近づいていきながら僕の中に強く芽生えてきたことは、「“DARKSPLASH”は終わらない」ということでした。

 一度、「共時」ということに気付いてしまうと、それは延々と途切れることがありません。そして僕が関心を寄せる、人、グループは、今回いっしょに計画を共にした方々だけにとどまりません。今、この時を、共に同時に生きている全ての、興味深い人々と、お互い生きている間は時を共にしているのだと思うと、あららこれからも毎日が“DARKSPLASH”なのでした。

 というわけで、総括どころか、またしても妄想のとめどない垂れ流しになってしまい申し訳ありません〜

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