Today's Terapika寺門孝之です。

Back Number 20031117

 

 2∞3年11月17日、月曜、晴れ。空気が冷たく引き締まり心地良い。

 さて展覧会の準備期間もあと3週間となり毎日こつこつ絵を描き進めているが、このところ新しい日課ができてしまった。それは切手の剥離と整理。BBSえんがわに書き込みくださったイギリス在住“みっすう”さんから大量の切手が届き、それらが台紙、というかカードやエンベロープに貼り着いた「生(ナマ)」切手なので。

 朝アトリエに来るとまず洗面器に水を張り、今日の分の切手を水に漬ける。コ一時間もすると切手の糊が溶解して剥がれるので今度はピンセットでそれを引き上げ、新聞紙に並べて干す。一日もすれば乾燥する。そしたらテーマ別にストックブックに整理。どんな絵に使えるか夢想しながら。

 この一連の作業がなかなかに愉しく、ついついそればっかり。

 思えばそれは、小学生だった頃の僕が、切手を集めていた母のその作業を引き受けてやっていたのと全く同じ仕事。前にもここに書いたけど、僕が絵に貼る切手のコレクションの母体は母が若い頃に集め、小学生時代の僕が整理したものだ。

 しかし、子供の頃の視線というものは実に強力で、今でも当時の切手を見ると、かつて子供の頃の僕が見詰めた視線が切手にこびりついているのがわかる。それこそ穴の空くほど一枚一枚を見詰めていたのだろう。

 同じことは、やはり当時集めていた貝殻を何年か前に絵に描いてみて思った。種類が同じでも、ひとつとしてこの貝と同じ貝はない。それぞれが世界でたったひとつの貝である。

 そんな目の前のワンアンドオンリーの貝を余すことなく見詰めた僕の視線が何重にも付着していて、その貝を左手に持ち右手で画布に描こうとすると、するすると魔法の様にかつての視線が今の視線に重なって、僕は30年前の僕と一体化して、子供の手と今の手が重なるようにして描くことができるのだった。

 稲垣足穂は「芸術とは幼心の完成」だと書いているが、最近ココロから僕もそう思う。

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