Today's Terapika寺門孝之です。

Back Number 20031019

 

 2∞3年1◎月19日、吉野川上村から早々に大阪へ降りて来られたので天王寺で円山応挙展観覧。多彩な作品で見応えがあった。

 夜はついに楽市楽座『アメリカンドリームと犬の生活』! 今回もココロの底に染み入る、不思議な感動と余韻を残す芝居であった。

 “大きくなったら、何になりたいの〜?” ……舞台で繰り返し歌われた歌が今も僕の中でリフレインしている。

 僕も妻も、自分の子供に時折、なんのためらいもなく訊ねる。

 “大きくなったら、何になりたいの?”

 僕も子供のとき、数多くの大人から何回も何回もそう訊かれたはずだ。

 「アメリカンドリームという言葉が生まれる以前の世界には、普通の人間が自分の将来に夢を見るなどということは、あまりなかったのかもしれない…。」と主宰の長山現氏は公演パンフレットに書いている。そうか、そうかもしれないな。誰でも彼でも自由に夢見ることが出来るかのようでいて、実はその夢は巧みに空回りするようにコントロールされていたりして、あくせく人生がそれこそ夢のように終わってしまう、のかな。

 「夢」を「希望」みたいな意味で使うようになったのはいつからなんだろう?

 「夢、希望、未来…」そんな言葉が、楽市楽座の舞台の上ではなんともやりきれない、ダークでアンダーで切ない倍音を伴って響いてくる。日の当たる明るい家、緑の芝生、そして大きな犬…そんな誰もがつい憧れる夢のヴィジョンがあっという間に、(ホントにあっという間に舞台には死体が累々)歪んで、つぶれて、巨大なおぞましい真っ黒な魔の犬が出現する、その手際のよさに喝采。

 またしてもヒロイン=マリコを演じる佐野キリコという女優がすばらしく、その声、その姿に感情を深くえぐられる。

 幕間の休憩に、パンツ1枚の裸体で舞台にゆらゆらと立ちつづけた新人・大越康善という人もそのまま夢だった。こんなシーンを笑いとともに、「夢」としての濃密さを持って成立させてしまうのが楽市楽座の凄味だ。

 他の役者もそれぞれ味わい深かった。まさか、チラシに描いたアフロヘアのプエルトリコ人が登場するとは思っていなかったのでびっくりした。

 エンドンはもちろん今回もそこで吹き荒れる想像力の中心軸によろりと立っていた。出番が少なく、もっともっと見たい気持ちだ。今回のエンドンは盲目らしいのだが、「想像力」は目の開け閉じに関わらず吹き荒れるはずだ。長山さんが彼のHPに書いているように「夢」はもともと「寝目(イメ)」=寝ている間の目そのものなのだから、エンドンが舞台から去った後の惨劇はエンドンの見えない目が見つづけている世界かもしれない。エンドンが500円硬貨を握り締め見る「夢」=「希望」の先にあんな大きな魔の犬がいるとはな、切なく怖い芝居である。

 それはそうと、楽市楽座の舞台の中央にはいつも穴があいていて棒がささっている。

 たいていはサンドイッチマン=エンドンのプラカードの杖なのだが、今回はそれが産婆=クローが持ち出した天の星をこちょぐって落とす丸太ん棒ともなって現れた。丸太の先端にはススキ(=オバナ)がくくりつけられていて、僕にはそれが絵筆のように見えた。くすぐられて落ちた星はあったかい女のハラに入り、女は身ごもる。星は生まれたい子供の魂だという。夜空に向けて高々と掲げられ、舞台中央の穴に突き刺されたこの丸太のシーンはなにかの「マツリ」を連想させた。最近読んだばかりの本によると、「ツエ」とはアイヌ語で男性器のことだそうだ。それから「マツリ」とはアイヌ語で「性交」そのもののことだという。

 なんとも出来過ぎな楽市楽座なのだった。

 次の3月が今からタノシミでならない。

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