2003年6月7日、土曜、ハレ。
朝、兵庫県立美術館へ秋野不矩展を観に。激奨する方あまただったため。実際に観てみて・・・・・・あまりの良さにショックを受け、ココロがうづくまりかける。
その後、色色と考えを巡らし再びココロを奮い立てる。
「日本画だから」でもなく、「インドを描いているから」でもなく、ただ「絵」として凄い状態。
秋野さんは「共感」する力に満ち溢れていた方だったに違いないと思う。芸術にもしも可能性、賞賛すべき素晴らしい部分があるとするなら、それは「共感」を生み出し得る、ということに尽きると僕は思う。
目の前の光景、自然、人々、さりげない日々の時間・・・そうしたもの・ことが瞬間瞬間創造されてきていること、この世が湧き起こっていること、そんなことに思いが向き、深く深く、この世界に共感したくなる、そんな契機を、秋野不矩さんの「絵」の一枚一枚から受け取りました。
展覧会は明日までです。未見の方は、県美へ走った方が良いです。蛇足ながら、カタログの図版の色・雰囲気は全く別モノになっていて×。生の絵を見る、ということの素晴らしさを改めて教えられた展覧会でもありました。「絵」を見ることがこんなにも豊かな体験だということを改めて思い知らされました。
そうそう、昨日、映画「戦場のピアニスト」を観たところだったので、「芸術」、についてちょうど考えさせられていたところ。昨日の結論も「共感」についてでした。
「芸術」は人にとってナニなのか? 過酷過ぎる現実の怒涛のさなかで「芸術」になにか可能性を見出せるのか?
ロマン・ポランスキー監督は決して楽観的に芸術を賛美してはいません。ただ芸術に生きるしかすべのない者(監督自身の投影でもある)が生きたとき、ときには芸術がその者を救う瞬間があるかもしれないし、しかし彼は何者も救えないかもしれない。監督の視線はクールでシニカル、その刃は自身へ向いていたように思います。
けれど、その画面、シーンのひとつひとつは物凄い重量の感情を湧き起こさずにはいられません。主人公は声高に何一つメッセージを語りません。また登場人物の誰一人として普遍的なことを言いません。ただ怒涛に流されていくのみ。
そんな中で主人公の弾くピアノの演奏が「共感」を生み出す瞬間。大きな怒涛の中での小さな瞬間。「共感」、芸術の持つ可能性はこのささやかで、深い「共感」にある、とポランスキー監督はこれだけ大掛かりな映画を撮りながら、ささやかにつぶやいている。
では、芸術のみが共感を生み出すのでしょうか? いいえ、とんでもない!
この映画の中で僕がいちばんココロに残っているのは、移送されながら主人公が妹(かな?)に、「こんなときに言うのもなんだが、・・・もっと話がしたかった」と言い、妹が瞬間的に感情が込み上げて泣きつつ「そうね(Thankyou)」と応えるシーン。
僕はここにポランスキーのココロを感じました。「話すこと」、「コミュニケーションをとること」、それこそが「共感」の手段だったはず。なのに僕達は、本当に話したいことを、話すべき人と、話さないで時を過ごす。もっともっと話したいことがあるのに。
話すべき人に話さない人が、芸術を通して、遠い知らない人になにかを伝える「共感」を生み出す可能性とその滑稽。「戦場のピアニスト」にポランスキー監督が込めた「キモ」のひとつはそんなことかな、と僕は共感しつつそう思います。
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