山の手事情社のこと
今ではもう知っている人はごく少ないかもしれませんが、僕は劇団・山の手事情社のほぼ立ち上げから関わり、第2回公演以来1991年までずっと宣伝美術を担当していました。1984年からですからもちろん日本グラフィック展大賞を取るよりも前で、僕はセツ(セツ・モードセミナー)の画学生。安田氏もまだ早稲田の学生さんだったでしょうか。
ご存知のように山の手事情社は早稲田劇研出身の劇団で、主宰の安田氏も創立メンバーの池田成志氏も第三舞台の舞台に立っていました。僕は演劇好きなので学生時代から足繁く東京へ通っては芝居を見まくっていたので、彼らのことはよく見知っていたのです。
『縦横無尽』、『デカメロン』、『メロドラマティック』…絵もデザインも素人で、見様見真似でこつこつ作ったチラシやポスターたち。先程引っ張り出して見ました。…ああ懐かしい。酸っぱい〜!
『PART2』、『神無月のころ』、『銀座線』、『象のフン』…この頃には僕もプロのイラストレーターになっていて次第に僕の絵が確立されていく様子が見て取れます。
その後、僕はコンピューターやビデオを駆使した当時の言葉でいうところの“テクノ・アーティスト”になっていったので、山の手の宣伝美術にもそれが反映されていきます。同時に安田氏も単に戯曲を書いてそれを演じるのではなく、なんだか不思議なアートではコラージュと呼んでいるような手法になっていき、
舞台は極めてSTRANGEなものになっていきました。
そんな中で時には舞台美術や、舞台衣装のデザインもしました。東京中から古いテレビを100台くらい集めて金色に塗り、舞台に積み上げてノイズを映し、さらにその上にスライドを投影したり、コンピューターと小さなビデオ機器を持ち込んで今で言う“VJ”のようなことを試みたこともありました。
正直言って、かなり入れ込んでいました。それというのも、主宰の安田雅弘氏の才能にほだされたからです。今、当時の印刷物を次々と眺めていると、僕の東京時代はそのまま山の手との10年だったことがわかります。
1992年、僕はちょっと悩み始めて、それまでの“テクノアート”的なことに見切りをつけ、“絵”ともう一度ぢっくり取り組みたくなり、神戸へ仕事場と生活の場を移し現在に至るわけですが、もし、あのまま、東京にいて、コンピューターも止めず、山の手とも伴走しつづけていたとしたらどうなっていたかな?とふと思いました。
僕は関わらなくなってしまいましたが、その後もときどき、舞台を見せていただいています。その後、どんどん、ずんずん、山の手は独自の道をひたすすみ、変化を重ねながら、独自の様式を発明しつづけている活躍は衆知のことと思います。
あっという間に、山の手から離れて10年が経っていました。
コンピューターを離れ、アートを離れ、ひたすらに“絵”を描いてきて、ようやく最近、それ以前のことを冷静に見渡せるような気分になってきました。結局、また同じところへ戻っている自分を発見するのです。
そんな時に、なんというグッドタイミングでしょう。山の手事情社がこれまでの活動を振り返る展覧会をするというのです。僕の担当したチラシやポスターも展示してくれるらしいです。これは僕もぜひ行って、じっくり振り返らなくちゃ、未来のために。“おしらせ”のページに詳細を掲示してもらいますので、関心のある方はぜひ見に行かれてはいかがでしょう? ただし、僕の絵たちは稚拙ではずかしいんですけど。
11月21日(木)13:00〜14:30には安田雅弘氏と池田成志氏による対談もあるそうですよ! こちらは早稲田大学小野講堂。お問い合わせ:早稲田大学演劇博物館 03−5286−1829。
あ、展覧会については“おしらせ”へどうぞ。そのうち、このHPにも山の手コーナー作りたいと思いました。この機会に。
ではまた。
2002年11月13日、水曜、晴れ。また寒。
寺門孝之
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