2002年5月1日、水曜。神戸に戻っています。ずっとしたした降っていた小雨が上がりかけて、空が明るくなってきました。
今回の東京の第一目的は「法事」。母方祖父母を偲んで親戚が集いました。
亡き祖父母や若い自分たちが写っている写真のアルバムを肴に酒などをいただき、思い出話がぶくぶくと沸き、その合間をそれら過去の写真には写っていない子供たちがはしゃぎまわる。そんな中にいると、自分が大いなる時の流れの中にいることを実感せざるを得ません。ひとりの人(この場合は祖父だと思うのですが)を中心に、家族・親戚・縁者が集い、そのひとが亡くなってもこうして集まり、「血」(?)としかいえないようなものをパーティの構成員を眺めつつ自分の中に感じたり、「部族」(?)なんて言葉を思い浮かべたり。こういう集いを繰り返して行きながら、その一人の人は自然と「神」になって行くのだな。その人が自分の世話だけでなく、家族・親戚・縁者、その他自分以外の広くたくさんの人のことを思い世話して生きれば、順繰りに、ひとりひとりが神になっていくのだな、なんて実感しました。
と同時に、そこに集まった部族の構成員たちを眺めながら、
自分の多面体を見ているような気にもなりました。多分それは互いにひとりひとりにとってもそうなのだと思うのですが、自分のある部分が、確かに他人の中でも繰り広げられていて、また他人のある部分が自分に展開している。そう見ると、自分ひとりいなくっても、ちゃんと「なにか僕が自分だと思っているもの・こと」はこの世界に実現しているんだなあ、と、とても心強い気持ちが湧いてくるのです。
絵などを描いて生きていると、とかく、僕の絵、僕にしか描けない絵、僕、僕、僕様…と力が入り、頭の中は自分でいっぱいな僕なのですが、こうして縁者を見まわすと、自分がいなくても僕の描きたいもの・ことは、かならず誰かがなんらかのカタチで実現してくれるに違いない、と安心のような気持ちが湧いてきました。
さらにまた同時に、逆さに考えると、今は亡き、今はいない人たちが、実現したいもの・ことをこそ、僕はいま実現したいと思っているに違いないと確信したのです。僕なりの、僕を通して。
どうして僕にはいつもいつにも、描きたい絵、実現したい世界が絶え間なくあるのだろう?とつねづね不思議だったのですが、そうか、それはこの世をはなれた人たちが
さらにこの代にも実現したい絵、世界があるからなのだ、と思えました。
「法事」で祝詞をあげてくださった先生がこんなことをおっしゃいました。曰く、「ある人を偲ぶ、思い出す、ということは実は、そのある人が自分のことを思ってくれているときにこそ起こり得るのです」。
思い出す、ことは、思い出されること。あ、と思いました。
以前お世話になったいまは亡きある方が、当時「夢」に夢中だった僕にこんなことを教えてくださったのを思い出したのです。「夢に誰かが出てきたら、それはあなたがその人を思っていると、
現代では思いがちです。でもそれは本来逆さで、あなたのことをその人が思っているからあなたの夢に出てくる、と古来人は考えてきたのです」。
そうだなあ、そうだったなあ…と今、しみじみ思うのはその先生がどこかから僕を思い出してくれているからかな?
さてと、この法事の前後、新しい「闇妹」シリーズのためのデッサンや写真撮影、地底の竜のための打ち合わせ、京都で見逃した「雪舟」展(オモシロイ!)などなど走り回って帰ってきたところです。
今年の2月に一生懸命描いた「シンデレラ」の絵がチラシになっていたのをゲットしてきました。松山バレエ団、こどもの日特別公演、「シンデレラ」。興味ある方はどうぞ、5月5日・6日、14時開演。Bunkamuraオーチャードホール。03(3477)3244
ではまた。
寺門孝之
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