2002年4月16日、火曜、小雨。のことを書きます。今日は17日、水曜、雨だけれど。
神戸ファッション専門学校で絵のセンセをするようになってもう5年が経って、6回目の新しい生徒たちとの今日が初日。毎年、どんな顔ぶれなのかな?と楽しみでもあり、どきどきもします。センセとして呼ばれて行ってはいるものの、決して自分は教師だとは思っていないので、その日その時にその場に居合わせてる人たちとのセッションだと思っているので、みんなと気がうまく交じり合って回るときは、なんとなく授業のある火曜の朝がうきうきしたものとなり、理由はわかんないけれどなんとなくうまくいかない年は火曜の朝が重い足取り。生徒たちは個人個人の集まりなのに、不思議と毎年集団としてカラーがあって、それは僕個人のお絵描き教室「てらこや」でもいえることだけれど、その会期に集っている「めんつ」によってコトの進み具合、深まり具合が違ってきます。
不思議なことで、「縁」としかいいようないです。「運」ともいえるけれど。
今年もいい縁、いい運だと良いです。期待しよっと。
で、不思議といえばこんなことも。初日だったのでお互い自己紹介とかして早めに授業を終えて、アトリエへ向かう道、ちょうど真中辺りに神戸クアハウスという温泉施設があります。疲れると時々そこを利用するのですが、しばらく行ってなかったので無性に湯につかりたくなり、じゃぽん。
で身体がすっかり温まったのでデッキチェアに横になって休んでいたところ、いつもはそんなことないのですが、眠ってしまったらしく、意識が戻ると1時間くらい経っていて、身体もすっかり冷えたのでサウナ室に飛びこみました。
いつもそこの備え付けのテレヴィではバラエティとかスポーツとかあまり興味のない番組がかかっているのですが、見るとアート番組をやっているようでした。汗を垂らしながら、他の人はいなくて一人でそれを見ていました。
明治時代の日本の画家=コスギ某(よく聞き取れない)は若くして絵の才能が開花し、30歳になったばかりくらいで文展の最高賞を2年も連続で受賞し夏目漱石にも絶賛され、前途洋洋の洋画家としてパリへ留学。がそこで自分の描いてる洋画と西洋人が描いてる油絵とはどこかが違う…と悩みに悩んだ後、当地で池大雅の一枚の日本画を見て
悟りを得、日本へ帰り洋画家としての地位を捨て、以後独学で日本画を学び、洋画の手法と日本画の精神を混ぜ合わせ独自の境地を追いつづけ、晩年は故郷の日光で自然を描きつづけ昭和39年の今日、4月16日に亡くなった、っていう内用。その後みのもんたの顔が映ったのでサウナを出ました。
なんでこんなことを不思議に思ったかと言うと、実は、僕自身が必要あって今、日本画の画材や技術の勉強を始めようとしているからなのでした。先の東京3連続展で好評だった『闇の妹』シリーズは、僕がこれまで使い馴染んできたアクリル絵の具を使っていますが、セツ・モードセミナーで学んだ描き方から随分離れ、独自に工夫してきた描き方で描いています。それが結果的に日本画の描き方に近いようで、展覧会場ではこれまでと違って、日本画サイドの方々から共感と励まし、具体的なサジェスチョンを頂きました。同世代の日本画家の方や、大先輩のの世代の日本画家の方や、日本画の模写の第一人者の先生や、日本文化を海外に紹介する仕事を続けておられる老紳士が、ああしたらよい、こうしたらよいと、具体的な意見をたくさんしてくださいました。
僕自身、描きたいイメージが
どんどん具体的になっていく最中、技術的、方法的な面の工夫を強化しなくちゃならない必要に迫られているときなので、とってもありがたかったのです。
と、いうココロがあってのサウナのテレヴィだったので、あら不思議、と思った次第です。
この世には偶然など一切無い、という言い方があり、一方で、いかなる大事も小さな偶然の積み重なり、という言い方もあって、僕はどっちでもいいけれど、そういう風なたくまぬ事象が僕のココロを後押ししてくれる風のように感じられて、ようしガンバロウとすなおに思うのでした。ようしがんばろう。
寺門孝之
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