2001年10月3日、水曜、晴れ。
あららら、ほらもう10月になってしまった。
日付を気にせずに暮らしてみたい。たとえば月の満ち欠けとか、身体の感じる気候の変化だけを頼りに、何の約束もせず、日付なしで。な〜んて、ついつい逃避な気持ちも沸き起こる、天高く、馬も豚も牛も私も肥ゆる秋、です。
そうそう、以前ここで「記号」のことを書きましたっけ。今日はふと思い付いて「象徴」のお話です。
僕の大好きな村上春樹さんの小説「スプートニクの恋人」にたしか、語り手の「僕」のところへ深夜、女の子から電話がかかり「記号と象徴の違いはなにか?」と訊ねられるシーンがありました。その際の「僕」のすごくわかりやすい回答の見事さは、実際に小説で読んでいただくとして、この間、ここで「記号」なんて言いながら同時に僕は「象徴」について考えていました。
僕は記号はあまり好きでなくって、僕の絵が記号みたいにならないように、って思うほどですが、象徴の方は、世界は象徴に満ちている!な〜んて言って、どうも好きみたいなんです。なぜかというと、あるモノが、ほかのそれ自体よりも広範囲のことの折り畳んで背負い込む力を持つことを、象徴というわけで、そのモノにそれ以上のパワーを込めることができるからです。絵画ではこの象徴という作用を太古からふんだんに利用してきました。
ところがここへきて、今回のテロ行為やその報復計画の進行のニュースを毎日浴びせられながら、象徴ってほんとに怖いなあって心底思います。テロの標的にされたのは貿易センタービルとペンタゴン、それからブッシュ氏自身…、まさしく象徴としてそれらは破壊されようとし、実際に前者は破壊されてしまいました。そしてそのテロに関与したとして象徴的な人物が報復の標的になっています。
記号は破壊しても何にも意味をなしませんが、象徴が破壊されるとそれが物質的に破壊されたこと以上に、それを象徴として依存しているあらゆる存在のココロにも打撃を与えることが可能です。
先日「ブロウ」というジョニー・ディップ主演のすばらしい映画を観ましたが、彼の演じるユングという人物がまさしく麻薬密輸界の象徴とされ、他に悪いヤツがたくさんいたりするし、本人の思いとは全く別の次元で彼は象徴に祭り上げられ、象徴的に何度も何度も逮捕されます。象徴になると、こうしたオペレーションの対象となってしまうわけです。
象徴のオペレーションが大きな権力とか多くの人々を支配しようという意思のもとで行われると、記号化された僕たちはついつい象徴的な事件のインパクトによってココロがコントロールされてしまいます。絵や映画など映像・画像はそれこそ象徴作用の武器として使える恐ろしいものでもあるんだな〜って思うのです。
ですからもちろん、誰かを記号として扱うようなことをしたくない、と思うと同時に、誰かとか何かを何かの象徴として接するのもほどほどにして、クールに生きたいものよなあ、とも思います。
で、自分の絵では、象徴パワーをふんだんに使いますが、それが既成の象徴や、現在の世の中の急激な流れとは拮抗とまではいかないにせよ、なんかふにゃらか〜っと、全然すっとぼけた象徴であって欲しいな〜って思うんですが、まあ、そんなことは狙ってできることでもないので、僕自身がふにゃらか〜っとしてこれからも描いていこうと思う次第です。
そうそう、まだご覧になっていない方、「てんらんかい」の「NEXT]でこれからの展覧会情報、チェックしといてくださいね! これから、まだまだがんがん展覧会あるんです。
ぢゃ、またしばらく僕は消えまして、そうそう6日〜8日の予定で伊勢のサルタヒコ神社で行われる「おひらきまつり2001」も覗いてみる予定です。興味のある方はこちらを。
http://www.convention.co.jp/sarutahiko/
神社とかおまつりとかも、まったくもって、象徴、としてあるのだよなあ。
ではまた。
from 寺門孝之
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