Today's Terapika寺門孝之です。

Back Number 20010312

 

 2001年3月12日、月曜、晴れ。

 昨日は夜11時前くらいからNHKの歌舞伎を見はじめて、VTR録りながらなので適当に途中で風呂にでもと思っていたのに、どんどんひきこまれてしまい、1時過ぎまで観続けてしまいました。出し物は『髪結新三』。勘九郎の。つくづく歌舞伎の不思議さ面白さを感じてしまいました。

 というのはこんなこと。

 僕がこの出し物を初めに見たのは「ミーハー歌舞伎」という本のイラストレーションを担当することになり、著者のセンセから山ほどVTRを送ってもらった中の1本がこれ。勘三郎の新三、先代仁左衛門の弥太五郎源七で、どちらも伝説の名優で故人。

 ああこういう感じだったのか〜と思いつつ画面を睨んでデッサンなどしていたわけ。で、僕としてはとっても気に入った絵がかけた出し物だったのです。

 で、昨日のは、勘三郎の息子の勘九郎の新三と先代の息子の新・仁左衛門の源七親分。そのそれぞれ親子がだぶってみえる。年齢の差が、それぞれを基点に想像される。つまり、ああ、勘三郎も若いときはこんな感じのぎらついたフェロモン出してたのかなあ、とか今の仁左衛門もさらに老けると案外と先代そっくりになってるかもなあ、とか。

 で、勘三郎新三のときの勝奴が勘九郎、あれから何年経ったんだろう今は新三で、勝奴を染五郎が。で、忠七はなんとどちらも芝翫。

 同じ出し物をこうして役者の代を重ねて観ることができるのって、とっても不思議な体験。まるで舞台の上の「お芝居」のみが現実で生身の役者はそれこそ何代も、何代も、うつろって。カタチをなぞって、伝えて行く。個々の人生を焼き尽くしながら。役が普遍で役者は過ぎていく。なんか、不思議な営み。これもまた「永遠」の。

 それから、同じ出し物を七代目菊五郎さんの新三でも、これはナマで舞台を見たこともあり、これまた当然だけれど、勘九郎・新三とは全く趣が違う。役は普遍で、役者は色、色。

 だいたい、歌舞伎をまあ僕だと20代で見始めて、今40でしょ、で爺さんになるまで観ると、やっぱり役者をうまくすると2代、もしかすると3代見られて、そこに「なにか」を感じられる。「なにか」を味わえる。伝統芸能のおたのしみは、そんなとこにもあるような気がします。

 菊五郎・新三のときの勝奴=八十助がこんど三津五郎襲名で、いつか新三も演るでしょうねえ。そのときも観たい、是非。

 でわまた。

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