2000年1月15日、月曜。晴れ。寒。氷ちまたに咲けり。前ならば成人式。
色々お知らせがあって、そのための画面、deepsea君が今つくってくれてる最中だと思うので、取り急ぎのブンのみ、ここでも今書きます。
昨年、1月17日当日、僕が壁画を描かせていただいたカフェ&レストラン・ハーンホフでデッサンプレゼントのイベントを催したのですが、今年は、デッサンは無し。代わりに、オリジナル・手描きの絵葉書をプレゼントします。1月17日夜の部にハーンホフへおこしのお客様先着100名様に。今、せっせと描いてたところ。天使のドローイングです。よかったらどぞ。
僕、自身は、今年はアトリエにこもり、ココロ澄まして、絵、描いてることにします。ひとり。アトリエも大分かたづいてきたことだし。
夕方、『ホワットライズビニーズ』観て来ました。ハリソン・フォードの映画。全く予備知識なしに、ま、スリラーらしいということで。で、けっこう怖かったです。古典的・正当派、クラシックな怖さで。過去の映画ではそうだなあ、『シャイニング』のラインとか狙ったのかしらん。
まあどうってことない映画ですが、僕はどうも、「水」関係のシーン、水死とか溺死とかに弱くって、ていうかそそられてしまって、この映画もはからずもモロにそんなシーンの連続だったので、気に入ってしまいました。バスタブ、湖の底・・・下のほうに横たわってるのは・・・。『太陽がいっぱい』とか『冒険者たち』とか、あと文楽の『碇知盛』とか、死者が水底にってのに感じちゃうんです。なんでかなあ。ずっと幼い頃から。水没経験ありなのか?
そういうわけで、なんともクラシカルに怖がって帰ってきました。
『ダンサーインザダーク』、今更うだうだ書くのもメンド臭くなっちゃったのですが、約束したのでちょっとだけ。
僕はビョークの、けして熱烈なファンではないのですが、ビョークの「歌」「声」「音楽」は、やはり「凄い」のではないのでしょうか、と思わされます。『マルコヴィッチの穴』のラストで流れる彼女のホィスパーヴォイスには神経がさっと耳を傾けたもん。
彼女の「歌」「音楽」に対する姿勢は「信仰」っていっていいくらいダイレクトで力強いと思わされる。その「歌」を聴くとイヤでもこちらの想像力が刺激されて発動し、様々な階級の、性別の、職業の、人人はもちろんのこと、テクノロジーのことや、様々な病理、さらには獣や、あらゆる生き物、地面や空気や風や石や水や、空や、あらゆるものの声・歌、へ想像が走り始める。
「歌」はその歌詞の意味を超えて万華鏡のように様々な想像を掻き立ててくれる。ほんとうに、願わくば、ビョークが「歌」に向かうように、僕も「絵」に向かえたらいいと思う。別にファンぢゃないけれど、そんな感じで思っていました。
映画『ダンサーインザダーク』はそんなビョークの「歌」なくしては、全く成り立ち得ない。のにもかかわらず、ビョークの「歌」だけから僕が得られる想像力の発動のほとんど全てを、全くもってつまらないたった一つの不出来なエセ悲劇ストーリーと引き換えに、抹殺してしまう。処刑してしまう。ビョークを、ビョークの「歌」を「存在」を賛美するかのように装って、実はそれを想像力貧困な監督自身の低次元にねじ伏せてしまう。
ビョークのエネルギーに対する嫉妬、劣等感を、こんなカタチで晴らそうとする監督は、いかに実現能力があったとしても、僕は卑劣で、せこくて、僕が育った神戸西部の方言で言うなら、「いしこい」と思う。
だから、嫌い。リュック・ベッソンの『ジャンヌダルク』にも同様の臭気を感じたな、そいえば。いくらでも「言い訳」できるつくりになっている。用意周到。
『マルコヴィッチ』のスパイク・ジョーンズ監督は、そういった感性の真反対。「ゲイ」っていうのか、両性具有、アンドロギュノスっていうのか、自由。
で、『DインザD』や『JD』は、もろ、オトコ。オトコ、みみちい。あああ、僕も、みみちい〜。く〜。
from terapika
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