2000年9月25日、月曜、晴れ。
昨日BBS“えんがわ”の方へほろ酔いちょびさんから寄せられました、僕の『大切感』について書いたtoday'sの文章のラスト部分に対しての質問について、けふはここでお答えしておきます。
改めて問題に成ってるその部分を読んでみると、
『巷(チマタ)には、昨今、描き殴ったような、あるいは描きかけたような、スピード感溢れる「絵」がモードとして流行しているようですが、僕はそうしたグラフィティ感覚・ストリート感覚といった風潮とは一線を画して、「大切感」したたる「無時間」の、スピード感とは無縁の「絵」を、猛烈なスピードで、描きつづけていこう、と思っているわけです』
なんて、ま、例によって、霊によって、僕の強引な無責任な文章で、オ恥ずかしい。ちょびさんが疑問を持たれても仕方ないですね。ただし、僕はヒトサマのお描きになる絵に別に苦言を呈してるのではけしてなく、ただただ、僕自身の「絵」を鼓舞、叱咤激励しているんだ、っていうことはようくご理解ください。
彼女からの質問は以下の5件。
1…描き殴ったような、あるいは描きかけたような、スピード感溢れる「絵」」については、これらを描かれた方たちがその絵はその段階で「成就している」と確信しておられたら、つまりその段階でその人たちなりの「大切感」も満たしているので、身も蓋もなく言っちゃうと、そんな絵は下手っていうことなんでしょうか?
2…あるいは「モードとしての流行」にこだわり、「成就」していない絵を敢えて世に発表されているのかしら?
3…「グラフィティ感覚・ストリート感覚といった風潮」はどこからやって来たのでしょう?
4…絵の流行や風潮について何か思っておられることがあったら教えていただけませんか。
5…また、一見サラサラっと描いたように見える、実際にも物理的には非常に短時間で描かれた絵で「成就」している絵もあるかと思うのですが、こういった場合の時間を指して「無時間」とおっしゃっておられるのでしょうか?
で、1,2については、ヒトサマがどう思われて描いておられるのか僕は知る由がありませんし、僕に質問されても困りますね。ただ、僕の「大切感」についての文章を読んでいただければ、大切感と上手・下手は全く別のことだとわかっていただけると思います。僕が「スピード感溢れる」絵といってる絵なんかは、どちらかといえば「上手」なものが多いような気がします。また「上手に見えやすい」ということもあるような気もしますが。
また5については、「絵」が成就していれば、そのプロセスにかかった時間が問題とされなくなるので、長時間かけようが、あっという間にできようが、同じく「無時間」だと言ってるつもりです。
さて、3,4については、僕もちょっと考えてみたくなったので、以下に、まとまらないかもしれませんが、書いてみます。題して
「やっつけたろ感」
僕は先に「大切感」について書きましたが、絵に限らず、芸術全般についてそれを突き動かしていると思われる衝動のもう一つは「やっつけたろ感」ではないか、と僕は睨んでいます。
ただただ、自分のために自分が大切だと思う思いをカタチにしていく「大切感」とは対照的に、現状に満足できず、できないからこそ、自分が状況に一石を投じたい、既成の価値観をやっつけたい「やっつけたろ感」。これによって「絵」は進歩してきた、と、いう考えもあるわけです。近代以降の絵画の歴史って習うとまあそんな考え方ですね?
僕がセツに通いはじめたころ、イラストレーションの世界にずんずん台頭してきたのが、「へたうま」と称されるイラストレーション群でした。湯村輝彦さん、安西水丸さん、沢野ひとしさん、などなど・・・そしてセツからは天才中村幸子さんなどの見る人の関節を脱臼させるようなへなちょこ感溢れる絵が一世を風靡していたのです。
当時まだ健在でスターだったペーター佐藤さんが講師にいらしたときに、セツ生のひとりが、「先生、へたうま、についてどう思われますか?」と質問しました。ペーターさんは、「うーんそうだなあ、へたにみえてもほんとは、うまい、ってことだからいいんぢゃない? 少なくとも、うまへた、よりはずっといい。ま、うまうま、がいちばんいいけど」とお答えになりました。
それを今、僕なりに解釈しますと、へたうま、っていうのはそれまでのイラストレーションの世界の生真面目さや、上手さ、スーパーリアリズムの流行、といった現状を「やっつけよう」と、「やっつけたろ感」が一機に炸裂して噴出したムーブメント。それは世界のアートシーンで「ニューペインティング」と呼ばれた、全然上手に見えない、めちゃくちゃに描き殴ったような絵画の流行とシンクロしてたと思います。
で、ペーターさんはご存知のように、端正でbeutifulな画風の方で、現状はこうだけど、やっぱり「うまうま」がいいよね、ってご自身の立場を表明されたのだと思います。
その後、もう「へたうま」だとか「ニューペインティング」だとか誰も言わなくなり、写真のブームがあったり、CGが隆盛を極めたり、まあいろいろありながら、でも大雑把に言うと「へたうま及びニューペインティング」の登場の頃とあまり変わってないと僕は思っています。つまり、「やっつけたろ感」がベースにある。それを今の言葉にすると「グラフィティ感覚」とか「ストリート感覚」ってことになると思います。
美術館に大事に並べられてるような「絵」ではなく、もっと「リアル」で「切実」でこの今を刻み付けたような生々しい「絵」、「美」なんかもうちゃんちゃらおかしくって、むしろ「醜」せいぜい「笑」、「悲」。「狂」ならオッケー。そんな価値観から描かれてる絵が最近でもとても多いような思います。
僕の感じでは、一時期のスナップ写真ブームやデザイン、タイポグラフィのブームが収まって、ちょっと「絵」に関心が動いてきてるような気がして、それはそれで嬉しいのですが、でも僕の興味はそんな現在只今の状況からはぐれてしまってるようなのです。美術館にあるような絵、キレイな絵が大好きで、できることなら過去のそうした絵を成り立たしめた技術を身につけたいと本気で思っていますし。
僕にも「やっつけたろ感」はてんこもりに備わってるとは思うんですが、なんか今のみんなの「やっつけたろ感」とはぐれてしまって…。そういう気持ちで「グラフィティ感覚・ストリート感覚といった風潮とは一線を画して」いきたい、と、こう書いたわけなんです。だって、やっぱり凄いと思うもん、ボッティチェルリとか。ああいう「絵」描けたらどんなに良いか。
あ、それと話はちょっとずれますが、最近の若い人がよく絵に文字・言葉を描き入れますが、これは僕が「事件」と呼んでることと関係してると思います。「絵」に「文字」を入れるのは、もっとも簡単な「事件」の起こし方。僕は、出来ればその技は封じ手にして、「絵」を「事件」で満たしたく思うのです。蛇足ながら。
ということで、ちょびさん、答えになったかどうか、不安ですが、こんなところでけふはお許しを。
ではまた。皆さん、いつでも質問は受け付けますよ、答えられるかどうかは、別として。
し〜ゆ〜。
from terapika
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