2000年9月14日、木曜、晴れたり曇ったり水滴ったり。
少し間が開きましたが、秘伝開示つづき、けふは
「コトの葉」
さて、これまで何回かに渡って僕が「絵」を描くにあたって「アタリマエ」に思うことを書いてみましたが、今回のテ〜マは「言葉」について、です。
よく絵を描いてる方が、「言葉では表せないことを、絵、にしている」んだって内容の言葉を口にされるのを聞くことがあります。ふむ、然り、そのとおり、とうなづきながら、しかし待てよ?と、意地悪な僕は「絵」の前で立ち止まります。この絵は果たして、言葉で言い表せない「絵」だろうか?と。
たしかに、「絵」は「言葉」で表せないモノ・コトを表現し得る、と信じています。が、だからといって「絵」の方が「言葉」よりも表現能力が高い、とか優れてる、とか僕は全く思いません。僕が大の「言葉」好き人間だからかもしれませんが、「言葉」というのはそう簡単に割り切れるものぢゃありません。
「言葉」では表せないコト、とはいったいどんなコトなのでしょう?
僕には多くの「絵」が実は「言葉」でも言い表せるのぢゃないか、と思うんです。少なくとも、その「絵」を成り立たしめた「行為」「思考」あるいは「イメージ」なんかと言われるコトガラはほとんど「言葉」だけで出来てることが多く見えるのです。逆に言うと、自分の描く「絵」をとことん「言葉」で追い詰めてある、ということは少ないように思うのです。
「言葉」に対する感受性、これが無い「絵」は、僕にはつまらない。物足らない。僕にとって「絵」と「言葉」は等価であって、双方、この「世界」に対して立ち向かうことが同じように可能だと考えます。当然、それぞれ得意な分野があり、再生工程、が違うので、作業は別回路で行われるのですが。
ですから、僕が「絵」を思いつき、実現しようとする工程では、「絵」と「言葉」が行けるところまで伴走していきます。「絵」を進めながら、次から次へと「言葉」が浮かんでくるのです。また、「絵」にしたいナニモノカがすとんと「言葉」として降ってくることも、実は多いのです。
それらの「言葉」はいちおう「タイトル・リスト」として僕の中にストックされています。「絵」に成ることもありますが、なかなか「絵」に成らずにぢっと待ってる「言葉」もいっぱいです。例えば以下に、15年くらい前からココロに降りたまま、「絵」にならない「言葉」達。
「潮紅白」
「葉天井」
「月天祭」
「鯛の屋根」
「鯖の屋根」
「オルガン」
「ステーション」
「分類学」
「コボルトスズメ」
「衣装海岸」
「blue浄土」
「梵天(ボデン)」
…などなど。これら「言葉」を忘れた頃に拾い出しては、キャンディのように口に含んでしゃぶる。と、たまあに、「絵」が成る、こともあります。
僕は本の虫、活字中毒者なので、なのでどんな本や文章のカケラからも「絵」にしたくなるキャンディを見つけてしまい、ストックはどんどん増えていきます。そして「絵」を描きながら、そのストックからぴったりの「言葉」をさがしたりするのですが、案外無かったりするので、出来あがった「絵」をココロにこんどはストックしてしゃぶりつつ「言葉」探したり、そんな繰り返し。
この夏も、葉山・秋谷邸で亭主・アクィーラ氏の蔵書からいくつかキャンディ拾い集めました。
「生まれ子」
「清まり」
「常夜(トコヤミ)」
「花鎮(ハナシヅメ)」
…。ううむ、いつか描きたい。
今、アトリエでは久々の大作と格闘中ですが、その「絵」の準備中から次々と「言葉」が来ては去っていく。「ノアごっこマリアごっこ」「夏の遊戯」「ノア・マリア・ノア」「ノアとは別にマリアのふりで」「墜落」…そして今は(まだ秘密)。
「絵」を描く最中にこうして舞い、訪れる「コトの葉」を集めては火にくべ、その煙と灰が「絵」になるのだったら理想的。それなら確かに「絵」は「言葉に出来ない」領域にまで達してるかも。そこいらを目指してけふもカンバスに貼りついている僕。
そんなわけで、けふの秘伝は、まったく僕のワガママ開示。おそらくほとんどの画家諸氏は、ちゃんと「言葉」を「絵」から切り離して描いてるんだろう、と思います。僕にはそれが出来ない、というだけのお話でした。すみません。
し〜ゆ〜。
from terapika
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