Today's Terapika寺門孝之です。

Back Number 20000906

 

 2000年9月5日、火曜、晴れ。あれ?また暑い…っていってたらあれ?9月6日になってしまった。水曜、晴れ。きのうがなくなった…?

 ではお待たせしてしまいました。秘伝開示の、つづき…

「サイズと左手」

 写真やCGのアウトプットなら絵を描く(あ、写真は描くのではなく撮る、か)のと、その絵(画像)を支持体に定着させることは分けて考えられるし、その絵(プリント)のサイズは後で、任意に変更できます。ぢゃあ、「絵」はどうでしょう?

 これについても、画家によって考えはまちまちでしょうが、僕の考えはこうです。「絵」の中にはそのサイズも含まれている。ま、アタリマエのことなんですが(ここで最近書いてることってアタリマエのことばっかり)。このことは、先日の「事件」を読んでくださった方はすぐにわかってくださると思います。

 つまり、僕が「絵」に望むことは、その前に立つ人の視線を、出来得る限り画面全体に散乱させたいってことですから、自ずと、「絵」はそれ固有のサイズを得て初めて成り立つってこと。小さく下絵を描いて、それを引き伸ばして、拡大して本チャン、ってプロセスを経る画家もいるらしいですが、それが僕には出来ません。

 小さく描いたら、そのサイズでの事件密度、大きく描くならば当然そのサイズでの事件の展開を考えなくてはならないわけで、たとえモティフや色構成などの同一はあったとしても、その二つは全く断絶、別件として扱わざるをえないんです。小さな絵ならば、1回の視線の内に画面の全域がほぼ見渡せるわけですから、事件はより大胆に、より物質感を強く押し出さなくてはならないでしょう。そうして小さな、狭い画面ながらも、視線を安心させないよう、どんな小さな事件も疎かにできないでしょう。

 いっぽう、かなりの大画面ならば、逆に、あまり小さな事件にこだわり過ぎると視線が停まってしまう惧れがありますから、まずは絵の内容そのものの強い「ムーヴマン」「うねり」によって視線の動きを喚起する必要があるでしょう。

 色についても、面積比がたとえ同じだったとしても、絵のサイズが違えば全くその効果は違ってくるでしょう。マティスはその辺りのことに極めて意識的でした。「1平方センチメートルの青と1平方メートルの青は違う青である」と名言を残しています。まさしく!

 しかしこれは別にむづかしく考えることはありません。要するに、「絵」はその支持体から剥がせない、ということだと思います。前に書いた「成就」のこと。「成就」したものが「絵」だということ。そこが「図」と「絵」がはっきりと区別されるところです。「図」はサイズ変更オッケー、どんな場所に描こうがいっこうに効力はかわりません。が、「絵」は「成就」した物体そのもののことなんです。

 僕は日々、どんどん「絵」を描いてるわけですが、そのそれぞれの「絵」はやはりある瞬間、降りてきます。ま、あまり神秘的に言わないとしたら、それらのひとつひとつの「絵」を思いつく瞬間が、あるわけです。ただなんとなく描いてたらできた、ってことではなくって、明確に、次はあの絵を描こう、というふうな感じです。

 で、思いついた「絵」には、色、モティフ、モデルが必要ならそれは誰か、画材、そしてもちろんサイズもコミで思いつくわけです。あ、これは100号は必要だ、とか、案外小さくした方が面白いとか、具体的に思いつく。そしてそれは他のサイズにしてしまっては成就できない「絵」なのです。また、CGと違って「絵」は肉体的なアクションの産物ですから、当然、サイズが大きくなればそれだけ肉体もこき使うわけで、その辺の「読み」も含んでの思いつきになってきます。

 どうですか?ずいぶんと具体的な作業でしょう?

 では僕が最初っからこんな風に具体的だったか、というと、もちろんそんなはずはありません。描きまくる、過剰なインプットによって、絵とサイズの関係を身体で覚えたのでしょう。

 てらこやの生徒達によく僕が言うことの一つは、絵の修行の初期段階には、絵のサイズ(まあ、紙のサイズといっていいですが)をふらふら替えるな、ということです。たとえばデッサンを8つ切り画用紙でするとしたら、おんなじサイズの紙で何百枚と描いた方が絶対いい、っていうのが僕の持論。ひとつのサイズでの絵の作法を徹底的に叩きこめば、後は違うサイズに替えても、その違和感をモノサシとして割とカンタンに次のサイズを掴むことが出来ます。身体にどのサイズも入ってないと、つまり身体にモノサシが無いと、いつまでたっても宙ぶらりん、ってこと。

 あとひとつ、ではそのサイズをどうやって身体で覚えるのかっていうと、これは確証はないのですが、僕は、「左手」なんぢゃないかな、と思っています。(左利きの人なら右手ですが。)デッサンをするとき紙を支えるために添える「左手」、その触覚によって経験が蓄積されるんぢゃないか、と思うのです。

 これはもちろんデッサンだけぢゃなく、あらゆる「絵」を描く際の、僕の癖、所作として、最初に真っ白な紙、カンバスを左手でささっと撫でる、撫でながら、筆を持った右手の指の腹をくるくる白紙上で動かして、描く「絵」の場所を探すのです。ダウジングみたい?

 というわけで、けふは「絵」にとって「サイズ」は切っても切れない重要な要素、だってことを書きました。でも、やっぱりアタリマエだったな。相撲取にとって土俵のサイズが決まってるからこそ、あのルールで勝負が成り立つわけで、急に土俵がサッカー場くらい広くなったら別ルールにしなきゃなんないもの。「絵」も全くおんなじ。あるグラウンドにおける運動のあり方、を見せるっていうのが「絵」なわけ。

 ぢゃまた。し〜ゆ〜。

 from terapika

 
 
 

「天使からのおくりもの」

凰宮天恵/著  寺門孝之/絵

大和書房 本体1100円+税

 

僕が看板・壁画など描いた店が
12月3日オープンしました。

Cafe Hahn Hof(カフェ ハーンホフ)

神戸市中央区明石町32
tel :078−321−0415
(元町・大丸の南、フェラガモとか入ってる明海ビルの地下1階)

 

Days of Angels
天使のカレンダー

絵*寺門孝之 / 文*三枝克之

リトル・モア  ¥1500+税

全国書店にて絶賛発売中!

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