2000年お、もう9月1日、金曜。曇りかつ蒸す。暑い。
チマタではガッコ始まりました。さっそくファッション専門学校の生徒達と街ですれ違う僕。
では、秘伝開示、4日目。
「カ〜ブ」
セツでさかんにデッサンしていた頃ですからもう随分前、僕はある展覧会で鯉かなにか魚の絵の前立っていました。別に好きでもなんでもない絵だったのですが、目が離せなくなってしまったのです。それは絵の魚の鱗のせいでした。鱗のひとつを描いた小さな曲線、それが次のウロコの曲線へ繋がり、またそれが隣の鱗の曲線に繋がり…と目が勝手に辿りだし、それと同時に、僕のココロにはその絵と全く関係ない記憶・思いがどんどん明確に顕れ始めていたのです。
それはその当時、僕は周囲の人の実際に見た夢を収集していたのですが、そのことに関する僕の思いや目的、行く先、また人間関係のことなどでした。いつもはココロの奥に封印されていたようなコトゴトがその魚の絵をきっかけに噴出したようなのでした。
そしてそれを引き起こしたのは、どうやらその絵の魚の鱗の曲線だったようなのです。その曲線は機械的なものではなく、画家が描いた瞬間の手の圧力の強弱がよく刻印されているような生ナマしい線でした。その時以来、僕は、「曲線」は「記憶」と結び付いているんだな、と思い始めました。
こんなこともありました。やはりその当時、その頃親しくしてもらっていた女性から「指テレヴィ」ということを教わったのです。彼女が言うには、自分の親指と人差し指の腹を合わせて(OKのかたち)静かにこすり合わせていると、頭の中に記憶の映像が見えてくる。テレヴィみたいで面白いので子供の頃から独りでいるときによくやって遊んでいた、ということでした。僕もその場でさっそく試してみると、はっきりと、神戸の実家へと帰る道の映像が見えました。そしてその映像は実家へ辿りつく直前の曲がり角を曲がるときのものでした。僕が幼い頃から数え切れないほど何回も曲がったその角の記憶、普段気にも留めてなかったその曲がり角を曲がる瞬間の体験が、指テレヴィによって甦ったのです。
以来、記憶というのは「曲がる」ことに結び付いてるんだな、と思うようになりました。そして「曲がる」ことは指と指を擦り合わせるような「触覚」と関係があるらしい、と目星をつけました。そう思いはじめると、実に、ありとあらゆることが、「カ〜ブ」していることに気がつきはじめました。
たとえば、会話。とりとめもなくつづいていく会話が、ある瞬間、折れ曲がったり、ゆるやかにコーナーを曲がっていったり、そんな風に感じるようになりました。同様に、小説・物語を読んでいてもそんな「カ〜ブ」を感じることがありました。なかには明らかに著者が「カ〜ブ」を意識して使いこなしてる作品もありました(例えば村上春樹さんの「羊をめぐる冒険」とか)。
そしてどういう理論かは想像もつかないけれど、道路上での実際のカ〜ブ、会話の流れのカ〜ブ、物語のカ〜ブは、指テレヴィと同様、手や腕のちょっとした小さな動きのカ〜ブによって記録・再生が可能なようなのでした。
線によるデッサンの面白さは、まさにこのことに尽きるのです。
以降、デッサンを繰り返すことによってそれは確信に至りました。対象を見詰め、そこから感じ取った「曲線」を、今度は自分の目の前の白紙に刻んでいく。対象の曲線をなぞるようにして僕の手・腕に力が入り、紙は筆圧を押し返し、それに抗うようにぐうーっと「カ〜ブ」を切って行く。この「カ〜ブを切る」刹那に、実にたくさんの、その「カ〜ブ」と相似系の森羅万象の記憶が僕に甦っているはずなのです。そうしてまたそのデッサンを見る人も、いつか僕が魚の絵の鱗の前でそうなったように、その人の総記憶からその「カ〜ブ」と相似な記憶を再生しながら、デッサンを見詰めてる、というわけ。
それはもちろんデッサンに限らず、僕の絵の上のあらゆる曲線においてその効果が考えられるわけで、美術用語の「ムーブマン」というのがまあだいたい僕の言う「カ〜ブ」のことを指してるのかな、とも思うけど、ちょっと違う。僕の言う「カ〜ブ」はもっと直接的に「魔術」なのです。忍者の術みたいな。
街を歩いてて、すれ違いざまに、あ、描きたい!と思うことがあるけれど、画材もないし、立ち止まることもできない、っていうとき、僕は小さくくるくる指を動かして、「指デッサン」をほとんど無意識のうちにしています。したからといって後でちゃんと紙に再現できるかっていうと、保証はないけれど、そうして身体に蓄積してる無数の小さな「カ〜ブ」は、僕の絵の中でくねくねと甦り、絵をご覧になる皆さん自身の記憶を生々しく誘発するかもしれません。
し〜ゆ〜。
from terapika
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