2000年8月30日、水曜、曇り。少うしだけ雨も。
さて昨日に引き続き今日も思いっ切り、秘伝・開示したく思います。
僕は、僕がこれまでずっと絵を描いてきて、これはまず間違い無いな、とココロにカラダに定着したコトゴトは全て丸々、出来るだけヒトに伝えて行こうと、積極的にそう思うのです。良いコト、正しいコトは、解り易く、みんなでシェアすべきだと思います。それを秘密主義・神秘主義で曖昧模糊とさせるのは結局は権力を持ちたい主義、ってことになっちゃうから。
芸術なんて方法をいくら教えても、結局は携わる個人その人の人生まるごとの問題だから、まねっこしたってどうしよもないんです。だから、僕は全て書くつもり! コトバに出来る範囲に限るけど。誰か、僕のコトバにピンときたら、自分の場所でそれをヒントになにか、やって! で、けふのタイトルは
「大切感」
僕は生まれてから3歳までを父の仕事の都合で名古屋で過ごしました。で、名古屋というと思い出されるのが、上品なお菓子「二人静」です。時々頂きモノとして我が家にやってきたこのお菓子、低い円筒の和紙の函に入っていて、薄く柔らかい和紙に白と薄桃色の半球の菓子が包まれているのです。口に入れるとほろほろと溶けて広がる柔らかな甘い味もさることながら、僕はその形状に深く魅入られていました。
和紙のねぢりをほどくと本当に白と桃色の2人がひっそりと身体を寄せ合って息をひそめているようで、それはそれはなんとも「大切」な感じが幼い僕にも伝わってくるのでした。僕の美意識は案外こんなところにルーツがあるのかもしれないな、なんて最近思うのです。
というのも僕はあらゆるモノに対して「大切感」が無いと認められない。隅々まで作り手のココロイキが染み渡っている感じ。けっしてないがしろには出来ない存在感、気配。タカラモノ感覚。大切な感じ、これは「高級感」とは違います。高級である必要はないのです。
例えば、子供が河原で無数の石の中から1個をすっと選んで拾って帰って、きれいな箱に入れてプレゼントしてくれたとします。それはなんのヘンテツもない石ですが、その子に「選ばれた」ことによってなにか揺るぎ無いオウラを発しています。捨てられないな、と思うのです。
僕が自分の「絵」に対して最低限思うのは、この「大切感」を成就してるか、ということです。支持体が紙ならばその縁の形状まできっちりと選び取りたい。カンバスならば下地の状態の隅々まで納得がいかないとイヤなのです。そうしてその上に絵の具などが載せられ、滲み、かすれ、覆い、流れ、その他ありとあらゆる状態が、少なくともおろそかには出来ない、気軽に手をさらに加えることが出来ない、そんな状態にまで行っていないと「絵」とは思えないのです。
それは当然、高級感とは無関係ですし、また上手・下手の基準とも軸が違います。僕が言うにはそれは「大切感」なのです。そしてそれは「プロセス」であっては決してならず、「成就」されてなくてはならないのです。「絵」が完成するということは、その絵がいつどのように、どんなプロセスで形成されていったか、といったことから完璧に超絶・断絶されていなければなりません。ただこの世の最初から、そのままのカタチであったような「絵」! そうなって初めて、「二人静」に匹敵する「大切感」に辿り着くのです。
巷(チマタ)には、昨今、描き殴ったような、あるいは描きかけたような、スピード感溢れる「絵」がモードとして流行しているようですが、僕はそうしたグラフィティ感覚・ストリート感覚といった風潮とは一線を画して、「大切感」したたる「無時間」の、スピード感とは無縁の「絵」を、猛烈なスピードで、描きつづけていこう、と思っているわけです。
し〜ゆ〜。
from terapika
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