2000年5月2日火曜。晴れていたのですが、空気は不安定、突然雨アラレand雷、その後また晴れて。
えんがわの方で葛飾北斎のお墓参りしたことについて書いたのですが、今日、当時の日記を調べてみるといくつか訂正がありましたので、ちょっとここでも書いておきます。
僕がお墓参りしたのは1992年ぢゃなくって、1993年の4月18日のことでした。4月18日が大北斎の命日ということですが、旧暦での日付なので、実際には現在の6月7日くらいとのことでした。僕が訪ねた当日は非常に暖かくて、お寺の方はちょうど6月7日くらいの気候となりましたな、などとおっしゃってたのを思い出しました。また、お墓のあるそのお寺は誓願寺ぢゃなくって、誓教寺でした。ちなみに最寄駅は稲荷町でした。ちっちゃなお寺でした。
僕は以前参加したことがあるという友人に誘われて行ったのですが、大北斎の命日のお祭りと聞いて想像していたよりはずっとひっそりとした小人数の集まりで、なんか自分の親族の法事のようなアットホーム感がありました。浮世絵研究の長老の先生を中心に若手の研究家や漫画家、あとは近所のおばさんって感じの人くらいで、なんで僕達が参加してるのかって感じでしたが、全然アットホームで素性を訊かれさえしませんでした。大北斎のご縁でただ集まってるって感じ、来るものこばまずの、い〜い感じの会でした。その上、毎年お知らせとお誘いの葉書を今でも送ってくださいます。今年は展覧会中で無理でしたが、来年あたりまた行ってみようかな。
で、僕はえんがわにも書きましたが、北斎はどんどん雅号(筆名)を変えていき、晩年は画狂人卍、最後には卍のみとなってしまいます。かっこ良過ぎ!誓教寺のお座敷の床の間に掛かっていた北斎の絶筆とされる掛け軸は大層異様なもので、骸骨があんどんをぶらさげて竹林からすっと浮いて現れて出た、という画。これが実に奇妙で謎めいており、会の話題はもっぱらこの骸骨絵に終始しました。老先生がおっしゃるところでは、その頭骸骨の容貌は北斎本人によく似ているということです。確かに、顎が小さく、両眼の穴の間隔が特徴的でそういわれれば北斎の肖像に似てるような気もします。
それから老先生は、しかし体の骨は小柄できゃしゃな感じで、これは女の骸骨じゃなかろうか?とおっしゃいました。ところがその会に東大の医学部の解剖学の先生という方もいらしてて、確かに全体の印象は小柄で華奢だが、骨盤はこりゃ男の骨盤です、と断言なさいました。また、華奢な割に足は大きいとおっしゃってました。老先生は、確かに、北斎の絵の人物にしては足が大きいのう、と感心されていました。
僕は皆さんの会話を聞きながら、ぢーっとその変な絵を見詰めていました。まず、骸骨のまわりにうっすらとまだ肉の気配のようなものが残っているように描かれているのが気にかかりました。それが妙に骨だけの人物を色っぽく、艶めかしくしているのです。それから、その骸骨が手にぶらさげているあんどんの上部が卍の形をしているのに気付き、はっとしました。このあんどんが北斎なんでしょうか? いやいや待てよ…
また竹の描き方もどうも気になります。何本かが不自然に傾いて骸骨が立っている平面があるような錯覚を起こさせていて、でも実はそれは傾いだ竹による線の交錯に過ぎず、骸骨は宙に浮遊しているのです。こうしたトリックは北斎の得意とするところですが、この絶筆でのトリックの意図するところは一体何だったのでしょう?
僕はそういった疑問を解明したくて、老先生を床の間の前まで引っ張って行き、いくつか自分の気付いた疑問をぶつけて見ましたが、老先生は、ほう、そうなってますかな?、ととぼけてらっしゃいました。きっと色々ご存知のはずでしょうが、さて、若造、そう思うんなら自分で調べて見ては、というところでしょうか?
そんなこんなで、僕はいっそう大北斎を身近に感じることとなりました。同時に、ほんのちょっと前のことなのに、もう文化が途切れてしまって、容易には北斎のところまでたどり着けない今の自分をふがいなくも感じるのです。その後見た北斎展でも、やはり彼の作品群はどうも奇妙に見えるのです。「彼は地中海を知っている!」これが北斎展を見た僕の直観でした。無根拠ですが、あいかわらず…。
まあとにかく、自分の国のたかだか百数十年前にこんな凄い画家がいたことを誇りに、すこうしでもそちらの方へ近づきたいと思いつつ、今日も下地塗りなどしていた次第です。ぢゃ、またfrom
terapika
「天使からのおくりもの」
凰宮天恵/著 ★ 寺門孝之/絵
大和書房 本体1100円+税
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baby oil magic ”
場所 : 美術画廊ギャルリ・ムスタシュ(大阪・心斎橋)
日程 : 2000年4月7日〜2000年5月7日
(詳しくは、“てんらんかい”の“NEXT”でご覧下さい)
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