「人生の午後のある日、
憂鬱な死が訪れて、あなたの中に腰を落着ける。
となると、起きあがって歩いても、
あなたは死と同じくらい憂鬱になる。
ところが、運が良ければ、
それがかえって、
楽しみをより良いものに、
愛を一層大きなものにしてくれるだろう・・・・・・。」
(ウイリアム・サローヤン「ワンデイインニューヨーク」より、今江祥智訳)
2月2日の夕方に腰が痛くて立てなくなってから、ずうっと自宅でベッドの上に寝てて、退屈なので枕元のウィリアム・サローヤンの数冊の文庫本を何回も何回も読みなおしているところ。もうすっかり、僕は今、47歳な気分。人生の午後のとある日、死と一緒にベッドの上、の気分に酔いしれています。
冒頭に引用した、「憂鬱な死が訪れて、あなたの中に腰を落着ける」ってとこを「あなたの腰に密着する」って読み間違えて、うわあ、やっぱりこの腰が痛いのは、人生の午後がやってきて、憂鬱な死が腰に密着してしまったんだあ、あああ、と絶望的な気分となったのですが、2回目に読むと、ちょっと違ってましたね、あはは。
僕はこのサローヤンという作家の小説も好きで、「パパ、ユーアークレイジー」などこれまでに数回読み返しています。もちろん今度のベッドでもね。皆様ももし未読ならばお験しください。
ずっとベッドに居ると、いろんなこと考えちゃうな、それから、ずいぶんいろんなたくさんのこと、思い出しちゃうな。今回のダウンで一番おもしろいのは、この記憶のこと。一番腰が痛くて眠れなかった2日〜3日の朝にかけて、僕は実に長い長い夜明けを体験しました。まだ暗いうちから鳥々のさえずりが聞こえ始め、いくら時間がたってもなかなか明るくならず、鳥々はさえずりつづけ、そんな中で僕はすっかり忘れてしまったつもりになっていた、つまらないことや、大切なことの色々を、くっきりとひとつずつ思い出していったのでした。思い出さされたっていうことかもしれません。腰痛と記憶とには、なにか関係があるのでしょうか。
そしてその思い出し方が、実に生生しくって、今、その体験をしている感じであるのと同時に、すごく客観的で他人事、というより、そこに関わる相手側の立場で記憶が解けるような感じさえしたのです。ああ、そうか、そういうことか、なんて感心しながら僕は自分の過去を少しずつゆっくりおさらいさせられました。そうして本当に朝が来る頃、ようやく安らかな眠りに落ちたのです。
さて、それからがどうもおかしいのですが、どうも、記憶が改変されてしまってる感じがするのです。例えば、中学生だったころのことに思いを馳せると、すっと、すぐに映画のように情景が浮かび、懐かしい忘れてしまってるクラスメイトの姿なども浮かび、当時気にもしてなかったような奴の気持ちが手に取るようにわかったり、まあそれはいいのですが、あきらかに僕の体験ぢゃないような映像が入ってるんです。
たとえば、屋上で、僕が友達と煙草をすっている。おかしいな、僕すってたのかな? 友人に無理やりトイレに連れこまれて、煙草をすわされている。あれ、吸わされてたんかな? それから、屋上で○○さん(女の子)とふたり、世界を見下ろしながら、あれやこれや話をしている。覚えがないんだなあ・・・ 謎です。とにかく、何かを思い出そうとすると、すっと、瞬時に映像と、その時の感情が甦って、それはとてもクリアーでぴっくりします。どうなっちゃってんだろう? ま、しばらく愉しんでみることにします。ベッドの上で。
ああ、でもこうしてはいられないんだけど、本当は、大仕事かかえてて・・・とほほ・・・
2月6日、日曜、雨。from
terapika
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