画家の秘密、魔法の本
以前「たま」という雑誌に依頼されて僕のおすすめの本を紹介する文章を書いたことがありました。“えんがわ”で「海からの贈物」のことに少し触れて懐かしくなって、その「たま」を探し出して再読してみると、今も少しも気持ちが変わっていなかったので、今日はここに再録したいと思います。僕の読書案内です。
子供の頃、貝殻を拾うのが大好きで、浜辺でも、時には工事現場に積まれた砂山からも小さな貝殻を捜して集めていた。リンドバーグ夫人の『海からの贈物』は、一章一章に「つめた貝」「たこぶね」などと貝の名前が付けられ、著者は実際にそれらの貝殻を目の前にして徒然(つれづれ)なるままに日々の生活のこと、社会のこと、結婚について等、女性の立場から思いを綴っていく。もともとは母が若い頃読んでいたものを僕が引き継いで読んでいるのだが、海へ出かける時には必ず持って行きたくなる一冊。貝殻(欲しい物)を得るには海(宇宙)に全てを委ねなくてはならないことを教えてくれる。
貝殻を集めるように一時期「夢」をコレクションしていた。夢を媒介にした不思議な恋物語『春昼・春昼後刻』は僕の大好きな泉鏡花の中でも最も読み返す作品。素晴らしいタイトルそのままの明るく穏やかな春の真昼にこちらとあちらの世界が溶け合って流れ始める。
澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』でも夢は大きく現(うつつ)を侵食して溶け合いながら壮大な冒険物語を成している。著者が自らの命と引き替えに得たとしか思えない見事な「玉」のような作品。「朗らか」にして「泣ける」。
稲垣足穂の初期の短編は僕の住む神戸の街並みを舞台としていてどれも好きだが、繰り返し読むのは自伝的な中編『弥勒』。どん底生活の果てに差す一条の宇宙の光。
小説家の一生が結晶したような作品はそうあるものではないが、森敦著『意味の変容』はそんな貴重な一作。20歳でデビューし60歳で芥川賞を取る間の40年間、著者は文壇から姿を消し、レンズ会社、ダム会社、印刷会社に勤め思索を続けた。「自分は充分に隠れているだろうか」と自問させられる一冊。「隠れて生きるために、幸福に生きよう」と、フィリップ・ソレルスの『ゆるぎなき心』のカバーの著者の顔写真の下に記されている。「小説家が小説を書く」ことの秘密、魔法が転写されたような本だ。生きているこの瞬間に歓びを持って没入し切ること。あらゆる知識と経験をこの瞬間に総動員して快楽すること。それはそのまま画家の秘密、魔法でもある。
『海からの贈物』リンドバーグ夫人/吉田健一訳、新潮文庫『春昼・春昼後刻』泉鏡花著、岩波文庫等『高丘親王航海記』澁澤龍彦著、文春文庫等『弥勒』稲垣足穂著、河出文庫等『意味の変容』森敦著、ちくま文庫など『ゆるぎなき心』フィリップ・ソレルス著/岩崎力訳、集英社
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