きのうに引き続き、おおたか静流さんに関係する話題です。
話は遠くなりますが、このところ僕はけっこう怒っていて、このところと言ってももう実は38年くらい怒ってるかもしれません。特に最近、その「怒り」についてクールに観察できるようになってきました。何か、具体的なことに怒ってるというよりは、もっと漠然とした、茫漠とした、しかし決定的な強烈な「怒り」なんです。もちろん、身近な、具体的な事象が引き金となってることもありますが(よくある)、あくまでそれは引き金に過ぎなくって、それによっておおもとの巨大な「怒り」を思い出すに過ぎません。いったいこの「怒り」はなんだろう? ってずっと気になっていたのです。
ただ、最近、この「怒り」はけっしてネガティヴなものではないんぢゃないか、と気付きました。「怒り」こそ僕の絵の素なんぢゃないかと。怒ってるからといって怒ってるような絵が生まれるわけでなく、僕の全ての絵、もちろん天使の絵だって、この「怒り」から生まれたのではないかと。その「怒り」は、まあ「怒り」としか今の僕には言えないのですが、もう少し詳しく言うと、現状を破壊しつくしたいような衝動と、何かを生み出したいという強烈な希求。まあ「創造性の火柱」そのものだと思うのですが、それが僕にとっては、「怒り」としか言いようのない感情として感じられるわけです。
で、先日のおおたか静流さんのライヴの中で、彼女は、維新派の公演「王國」の主題歌といって「go
along the river」(違ってたらごめんなさい)というタイトルの歌を歌われました。その中に「ヒカリにむかって」「ヒカリの流れの方へ」という歌詞があって、2番ではそれが「イカリにむかって」「イカリの流れの方へ」と歌われた(ように僕に聞こえた)のでした。僕はハッとして、僕の中で「光り」と「怒り」がイコールで繋がったのでした。ああ、僕は「怒り」の流れに向かって、「光り」の方へ向かっていたのだと…勝手に大納得したのでした。
次の日、おおたかさんとTELでお話ししたときにそのことを問うてみると、2番も歌詞は「光り」とのこと、僕の勝手な聞き違いだったわけですけど、それでも僕にとって、もう「怒り」=「光り」の定理が定着してしまったのです。ああ、今日もむしゃくしゃする! 創造性の火柱をおっ立ててぇ。
10月9日、土曜、10月特有の康天候。from 寺門孝之
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