時々、“てらこや”の生徒達にまじって、うちの5才になる娘がデッサンの輪に加わることがあります。親バカ発言にきこえてしまうかもしれないんですが、僕は娘の描くデッサンにいつも驚愕させられます。なーんでこんなふうに描けるんだろう、娘のデッサンはやはり子供にしか引けないだろうプリミティフな線で刻まれていますが、目の前のモデルやその光景の特徴を余すことなく捉えて、それもかなりのスピード、大人のてらこや生の約半分の時間で描き切って、残りの時間はポケモンを描いています。ちゃんと、完成の瞬間を知っているのです。そして、表現の自由なこと!
僕はすこしくやしくなりながら、娘のデッサンを見詰め、この絵の「自由」について考えます。セツ先生も常に、「自由に描きな」と言いつづけていました。
でも自由に描くって、どうすればいいのでしょう?僕は、たとえば娘のデッサンのように自由なデッサンを引けるでしょうか?大人が、子供のように描けば、それは自由でしょうか?「子供のように」なーんて思った途端、不自由に落っこちちゃうもんですし。
この夏、僕は娘のデッサンを描いてるのを観察しながら、「自由」が少ーしわかってきた気がします。それは、「気づいたことを、その瞬間にする」ということです。モデルを見詰め、何かに気付く、その瞬間にエイッ、と線を刻む。すると、そこに電気のようなのが走って、「自由」のエネルギーを捕らえることができるのです。気付いたことをすぐに出来ないのが、「不自由」、たいていの僕達はそんな不自由な時を過ごしています。
ようし、僕は、気付いたことを、気付いた途端に出来る人になるぞー、と、この夏に思ったのでした。
8月26日、木曜日、晴れ、なんか秋。ようこそ、“てらぴかのえんがわ”へ from 寺門孝之
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