<第3話:黒部峡谷/黒薙温泉>
今となってはそれが旅の記憶なのか、旅で見た夢の記憶なのか、
あるいは、夢で見た旅の記憶なのか、よくはわからないのですが・・・。
宇奈月温泉から関西電力のトロッコ鉄道に乗って行く黒部峡谷には、
一軒宿のいい温泉が多く点在します。
中でも僕が気に入っているのが、黒薙(くろなぎ)温泉。
まずは温泉へのアプローチが楽しい。
トロッコ鉄道の黒薙駅で降りると、列車が走り去ったことを確認して、
線路の上をトコトコと歩きます。
しばらくすると山の冷気を封じ込めたようなひんやりとしたトンネルに入ります。
豆電球だけが点るトンネルの中を歩くこと数分、右手に小さな横穴があります。
この、人ひとりがやっと通れるくらいの狭いトンネルは少々急な下り勾配です。
まるで異次元へのタイムトンネルを歩いている気分になります。
といっても、もちろん僕は本当のタイムトンネルを歩いたことはないのですが・・・。
しかし状況に応じて自分でそんな気分を作るのは、旅を楽しむ方法の一つではあります。
そうこうするうちに出口が近づき、
まぶしい山の緑(秋なら紅)が目に、清流のせせらぎの音が耳に飛び込んできます。
そしてトンネルを抜けると、ほら、やっぱりあれはタイムトンネルだったんだ!
そこは、まさに百年ぐらい昔の日本に来たかのような光景です。
目の前には翡翠色の渓谷が広がり、オパール色をした黒部の支流・黒薙川が蛇行しています。
右手の小道を行くと、木造の鄙びた宿泊棟があり、
左手の小道を下って河原に行くと、巨石組みの露天風呂(当然ながら混浴)です。
葉擦れの音や渓流の音を聞き、流れる雲を眺めながら入る露天風呂は、
じつに気持ちのよいものです。
こういう時、僕はいつも確信をもって思うのです。
「日本で本当に世界に誇れるものは、この露天風呂文化の他にはない」と・・・。
しかしこの黒薙温泉の露天風呂、
ここでちょっと気になるものが目に入ります。
木組みの脱衣所の柱に貼ってある小さな貼り紙です。
「5時からはオロロが出ますので御注意ください」
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えっ? 「オロロ」って何? 注意するって、どう注意するの?
「オロロ」って「トトロ」みたいなものかな〜?
それとも「オロチ(大蛇)」のこと? クマのこと?
でもどうして5時きっかりに出るの?
そこには他に何の解説もないので、僕は湯に浸かりながら、
ただひたすら「オロロ」とは何かを想像するばかりなのですが、
これがじつに、深山の温泉の醍醐味を感じさせて何ともいい感じなのです。
もちろん宿の人に尋ねれば、
「オロロ」の正体はすぐにわかることでしょう。
しかしそれは野暮というものです。
世の中、知らないほうが楽しいことも多いものです。
今しばらくは、「オロロ」の謎は謎のままにして、
この適度な湯加減の、夢の湯舟に浸かっていることにいたしましょう。
黒部峡谷鉄道の切符
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