< 旅の夢、夢の旅 >
第1話

<『旅の夢、夢の旅』・・・はじめに>

僕にとって「旅」は現実から逃避するための最良の手段です。
「現(うつつ)」に対する「夢」の世界と同じようなもので、
僕のココロの逃げ場所のひとつです。
「記憶」とはそもそもひどく曖昧な「脳が編纂したシロモノ」ですが、
特に「旅の記憶」などというものは、旅から戻り、しばらくして再び現実に飽きてくると、
居心地のいいココロの逃げ場所として、自分の都合のよいようにどんどん編纂されます。
そして、より「夢」の世界に近い「曖昧な記憶」へと姿を変えます。
また一方で、実際に旅をしている時には、とても不思議なのですが、
「自分がどこかを旅をしている夢」を見ることが多いものです。
その「夢で見た旅」の記憶もまた、僕の旅の一部となって記憶されます。
こうして「旅の記憶」はさらに曖昧なものとなり、
時が経つにつれて、どんどんと「現実」と「夢」の境い目のない、
「誰そ彼時(たそがれどき)」の記憶へと変ぼうしていきます。

以前からずっと、自分のこれまでの「旅の思い出」を綴ってみたいと思っていたのですが、
なにぶん僕は、ふだんはもちろんのこと、旅行中も日記を書かない人間で、
紀行文や旅エッセイなどといったきちんとした文章にはなりそうもなく、
はて、どうしたものか・・・と放り投げていました。
しかし今回久しぶりの長旅から戻り、ふと気づいたのは、
その「現実」だか、編纂された「曖昧な記憶」だか、ただの「夢」だか、
その違いすらわからぬ「思い出」自体が、僕の「旅」なのだろうということです。
そして、それをそのまま書いてみてはどうかと考えたのが、
この<旅の夢、夢の旅>です。

あくまでも僕の「旅の思い出」なので、僕の書くことが現実にあったことかどうか、
僕自身すでに判別はできません。
(もちろん本人としては自分の身に起こったことだけを書いているつもりですが・・・)
ただ言えることは、旅をしていると、
世界はまだまだ広く、現実はどこまでも深いことを思い知らされるということです。
まるでウソのような本当の話や、現実ばなれした不思議な場所がゴロゴロと転がっています。
また「胡蝶之夢」ではありませんが、
そもそも「夢」が「現実」で、「現実」が「夢」であることもあり得ることです。
読者のみなさまにはこの「旅の話」を、
「現実の旅の話」を綴った紀行文としてよりもむしろ、
「夢で見た旅の話」あるいは「旅先で見た夢の話」ぐらいのつもりで、
ウツラウツラと読んでいいただけると幸いです。
僕にとっては、
「黄金の国ジパング」の登場するマルコ・ポーロの紀行文『東方見聞録』も、
「雲上の国ラピュータ」の登場するスウィフトの小説『ガリヴァー旅行記』も、
「旅のガイドブック」としてさしたる違いはないのです。


<第1話:モロッコ/タンジェ>

今となってはそれが旅の記憶なのか、旅で見た夢の記憶なのか、
あるいは、夢で見た旅の記憶なのか、よくはわからないのですが・・・。

そもそも僕の旅の記憶が、こんなふうに現実と夢がごちゃまぜのものになってしまったのは、
タンジェを訪れてからのことのような気がします。
もしかしたら僕はタンジェ訪問以降、ずっと夢の中にいるのかもしれません。

タンジェは、ジブラルタル海峡をはさんでスペインと対峙するモロッコの海の玄関口です。
いわば西欧の文化と北アフリカのアラブ世界(マグレブ)の文化が、
時にぶつかり、時に混ざりあう街です。
そして僕にとっては、映画『シェルタリングスカイ』の物語が始まり、終わる街であり、
その原作者のポール・ボウルズが今なおどこかに住む(*僕の訪問当時、1999年に死去)街であり、
その友人ウィリアム・バロウズが『裸のランチ』で描いた<インターゾーン>のモデルとなった街であり、
そして画家マティスが、自己の絵の装飾性を再発見して多くの名作を残した街でした。

僕は妻とともにスペイン南端の港町アルヘシラスから15:00発のフェリーに乗り込みました。
タンジェまではたった2時間の船旅ですが、スペインとモロッコでは時差が2時間あるため、
出発した時刻と到着した時刻が同じになります。これは何だか奇妙なものです。
この時差のことからして、タンジェという街に時空の歪みを感じずにはいられません。

モロッコ行きを僕に勧めたのは妻でした。彼女は以前に妹と一緒にモロッコを旅して、
その時の印象がとてもよかったので、ぜひ僕を連れて行きたかったらしいのです。
しかし、それとウラハラに船上で彼女から聞いたモロッコの旅の思い出話はとても恐ろしいものでした。
この同じタンジェ行きのフェリーの船上でモロッコのヤクザに目をつけられ、
街から街へと追いかけ回されたあげく、最後は、泊まっていたホテルを真夜中にこっそり抜け出して、
ようやく難を逃れたという、信じられないような冒険談だったのです。
おまけに、それまでスペインで出会ったモロッコ帰りの日本人に、モロッコを良くいう者は一人としておらず、
話を聞くとそのほとんどがタンジェでくじけてしまい、1日でスペインへとんぼ返りしていました。
妻の勧めだけを頼りにフェリーに乗った僕は、アフリカ大陸が近づくにつれて不安になりましたが、
一方で、タンジェの街角でバッタリとポール・ボウルズに出会ってみたい、
マティスの描いた城門や人々を見てみたいとの好奇心もまた抑えられずにいました。

フェリーがタンジェの港に着き、イミグレーションを通過すると、
もうそこには噂に高い「タンジェの自称ガイド」たちが群がっていました。
モロッコの人にはとても失礼な言い方ですが、身勝手な旅人の立場からすると、
彼らは「ヒトの姿をしたハエ」のような存在です。
ひとりを追い払っても、すぐに次のひとりがやってきて、ガイドブックを開くことさえできません。
「彼ら」は勝手に僕たちの荷物を持って行こうとしたり、
腕を引っぱっては自分の知り合いのホテルに連れて行こうとします。
あるいはただ手を伸ばして、「アンディラハム」(1ディラハム。ディラハムはモロッコの通貨単位)と
叫ぶものもいます。
とりあえず貴重品にだけは気をつけながら、群がる「彼ら」を引き連れたまま、
僕らは小さな丘(というか実際には古い城塞都市跡)の上にあるメディナ(旧市街)を目指しました。
そしてメディナの路地に手頃な安宿を見つけると、さっさと値段交渉をすませチェックインしました。
宿の外からは、
「俺たちがここまで連れてきたんだ、ガイド料を払え!」と口々に叫ぶ「彼ら」の声が聞こえます。
その声を無視して部屋のキーを受け取った僕らは、
パティオ(中庭)を囲んで迷路のようになった館内を歩き回り、
ようやく自分たちの部屋を見つけると、リュックを下ろしました。
港を降りてからまだ30分ほどしか経ってませんが、すでにクタクタです。
堅いベッドに寝ころび、ぐるぐると回る、天井の巨大な扇風機を見ているうちに、
いつの間にか二人ともウトウトしていました。

気づいた時には、日はだいぶ傾いていました。
僕らは夕食がてらスーク(市場)を見に行くことにしました。
宿を一歩出ると案の定、また「彼ら」が群がってきました。
ご存じの方も多いと思いますが、モロッコのメディナは迷路のようになっていて、
旅行者が道に迷わずに歩くことは不可能です。
タンジェのメディナは、有名なフェズやマラケシュのメディナにくらべると小さなものですが、
それでも地図など役に立つようなところではありません。
本当はガイドがいるにこしたことはないのですが、
「彼ら」のほとんどはあくまでも「自称ガイド」であって、
本職は、絨毯屋の客引きか、何かの斡旋業・・・。
ともかく観光客を自分たちの巣穴に引きづり込んでしまうのが、彼らの目的です。
そんな「彼ら」にガイドを頼むのは、リスクの高い商談であることは間違いありません。
僕らは自分たちでメディナをさまよい歩くことにして、「彼ら」を無視しながら進みはじめました。
「彼ら」にも縄張りがあるらしく、ある地区を過ぎるとさっと離れることがあるのですが、
またすぐに別の者がやって来て、いつも誰かがついてくることには変わりありません。
僕らは足の向くままうろうろするうち、海峡をのぞむ見晴らしのいい広場に出ました。
そこには『スター・ウォーズ』のオビ・ワンが着ていたような
ジュラバ(フ−ドのついたモロッコの外套)を着た男や、
頭からベールをかぶり、目だけを出した女たちがたくさんたむろし、夕涼みをしていました。
僕はそこにポール・ボウルズの姿を探しましたが、今日は来ていないようでした。
広場でひと休み(といっても終始「彼ら」が話しかけるので実際には休めなかったのですが)した僕らは、
そろそろ夕食にしようとスークに向かいました。
金物屋のスークを抜け、衣料品のスークを抜け、ひときわ「彼ら」の多い土産物屋の並ぶスークを走り抜け、
八百屋や魚屋、羊肉屋などが並ぶ生鮮品のスークに出た頃には日はとっぷりと暮れていました。
路地の石畳はびちゃびちゃと濡れていて、果物の切れ端や魚のヒレ、鶏の頭などが転がっていましたが、
やがてその足元も見難くなり、時おり何かグニャッとしたものを踏んでは、
果たして今の得体の知れない感触は何だったのだろうと、恐る恐る想像しながら歩きました。
そしてようやくスークの中に安心できそうな1軒のレストランを見つけ、そこに入ろうとすると、
さっきから僕らの前を歩いていた10歳ぐらいの少年が店の前でくるりと振り向き、
「ガイドをしたから金を払え」と言い出しました。自分がこの店に連れてきたのだというわけです。
もちろんそんなガイドの押し売りにお金を払うワケにはいきません。
僕らは店の主人が見ている前で少年としばらく押し問答をし、やっとのことで少年を追い返しました。
しかしその時には、もうその店に入る気も失せ(だって主人はその少年の味方だったのですから)、
再び迷路の街を、お腹をペコペコに空かせながら、
そして相変わらずまとわりつく「彼ら」を追い払いながら、さまよいました。
結局、夕食にありつけたのは、宵も深まり、スークから人影もまばらになった時間でした。
その安食堂のハリーラ(モロッコの豆のスープ)と
タジン(羊肉のシチュー)がとても美味しかったのが、せめてもの救いです。
宿へ戻る途中、宿のすぐ近くに外国人向けのカフェを見つけました。
カフェの中では大音量でアラブのポップミュージックが流れ、ハシシの匂いが立ちこめています。
僕らはそこで、脳が解けそうな大量の砂糖と一株ぐらいのミントの葉っぱが入ったミントティーを飲みました。
宿の部屋に戻った時には、二人ともシャワーを浴びる気力すらなく、そのままベッドに倒れ込みました。
カフェのアラブポップスと喧噪は部屋まで聞こえてきましたし、
耳の中では、昼間から聞き続けた「彼ら」の
アラビア語、フランス語、英語、日本語(これがじつに達者!)がなかなか鳴りやみません。
それでも疲れはいつの間にか僕らを眠りの世界に引き込んでいました。

その夜、僕は夢を見ました。
魚のハラワタが一面に敷き詰められ、他に足の置く場所もないような狭く暗い路地を、
裸足で歩いている夢でした。
そのナマの足裏に感じるグチャッとした臓物や浮袋の感触は、今でもリアルに憶えています。

まだ、夜の明けない時間です。妻が起きている気配に気づきました。
「どうしたん?」と聞くと、彼女は、
「もう帰ろうか? あした、スペインに帰ろうか?」と言うのです。
僕も気分は同じようなものでしたが、ひとまず尋ねました。
「なんで? モロッコに来たかったんやろ?」
「そう。でもタンジェは・・・もうここにはいたくない」
「わかったわかった。でも今夜は疲れてるし、明日の朝、また予定を考え直そう」
その時、パティオの向こうから「クルルルルルーーッ」という女性の異様な叫び声が
聞えてきました。
僕と妻は顔を見合わせました。その奇声には聞き覚えがあります。
映画『シェルタリングスカイ』の中で聞いた声です。
タンジェの街はずれのテント小屋で娼婦と寝た主人公の夫が、テントから逃げ出そうとした時に、
娼婦が仲間を呼ぶために舌を丸めて発する、アラブ独特の奇声です。
(つい最近では、アメリカで同時多発テロ事件が起きた直後のパレスチナの映像で、
この奇声を発する女性の姿を目にしました。)
映画ではその後、夫は男たちにつかまり、ボコボコにされ、金を巻き上げられます。
今聞こえた奇声は、この街から抜け出そうと考えている僕らを逃がすまいとして、
どこかの女が叫んだのでしょうか?
僕らは結局そのまま夜を明かしました。

僕は高く暗い天井を見つめながら、あの10歳ぐらいの
押し売りガイドの少年のことを思い返しました。
当時、会社を辞めたばかりだった僕は、旅から帰ってからの仕事のことに、
まったく不安を感じてなかったといえばウソになります。
彼はそんな僕の軟弱なタマシイをけ飛ばし、こう言った気がしました。
「生きていたいなら、つべこべ言う前に、もっと自分の頭と足を使えよ!」

朝になり、ひとまず朝食を食べるため、僕らはシャワーを浴びて宿を出ました。
そして近くのカフェでカフェオレを飲み、バゲットを食べながら、
ふと、今日は「彼ら」がひとりも寄って来ないことに気づきました。
「まだ朝が早いからかな?」
そういって、僕らはひとときの静かなモロッコの朝を過ごしました。
モロッコはフランスの植民地だっただけあって、パンとコーヒーは本土なみです。
少なくともスペインよりはずっとおいしいものがあります。
幸せな朝食を終え、僕らはしばらく朝のスークを覗いてみることにしました。
今日スペインに戻るにしても、まだフェリーの最終便までは時間があるし、
美味しいパンやコーヒー、本場のクスクスをもう少し味わってみたい気もしたからです。
「アッラー、アクバール〜〜〜」
モスク(イスラム教会)からアザーン(祈りの時間を知らせるアナウンス)の声が響きました。

僕たちは昨日宵闇の中をさまよったスークを、今度はゆっくりと歩きました。
しかし不思議なのは、もう日もだいぶ高くなり、人の出も多くなったにも関わらず、
あの五月蝿かった「彼ら」が、ただのひとりも近づいて来ないことです。
土産物屋のスークでさえも、店の売り子が声をかけるだけで、
僕らの前を常に歩く「押し売りガイド」も、後ろをついてくる「すきあらばガイド」もいません。
昨日のことがまるでウソのようです。
「彼ら」のシンジケートがあって、未明のミーティングで、
「あの日本人の男女は追いかけてもムダだ。もう無視しよう」
そんな指示がでたのでしょうか?
いえいえ、これは冗談ではなく、本当にそうとしか考えられない変わりようなのです。
思えば、日本人も含めてたくさんいるタンジェの観光客の中で、
半日にして全員がきちんと僕らの顔を憶えてしまっているというのも、じつに恐ろしい眼力です。
きっと「彼ら」はこのタンジェの他の観光客の顔も、みんな覚えているに違いありません。

結局、僕らはそのまま数日タンジェに滞在し、
その後、アトラス山脈を越えてサハラ砂漠へと向かいました。
そして、さらなるモロッコの奥深い楽しさと不思議さ、
あるいは、決して一筋縄ではいかないタフさを味わうことになるのですが、
それはまたいずれかの機会に・・・。

しかし今思い出してみても、あのタンジェの最初の夜は何か特別でした。
まるで魔法がかった夜でした。
あの夜のタンジェは、本当にタンジェだったのでしょうか?
それともあの夜のタンジェこそが、ビート詩人たちを虜にした、本当のタンジェだったのでしょうか?
15:00発のフェリーで15:00に着いた街。僕は本当にフェリーに乗ったのでしょうか?
僕は本当にタンジェに着いたのでしょうか?


タンジェのメディナのカフェにて

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