< 茶話 >
2000年5月26

皆様、ごぶさたいたしております。
その昔、<てらぴかのえんがわ>内に<茶室>という庵を設けていただき、
時おり駄文をのっけていただいていた三枝と申します。
覚えていただいていたでしょうか?(と恐る恐る・・・)
1ヶ月以上も更新さぼってしまってスイマセンでした。
何の因果か、この風薫る素敵な季節に仕事場軟禁状態で
ひたすら文字の山と格闘しておりました。
そんな毎日を送っていると精神衛生上いいわけがなく、
「ああ、ちょっとどこかへ行きたいなあ」といった平和な気持ちは通り越して、
「ああ、いっそどこかへ行ってしまいたい」といった暴力的な心境に陥るものです。
おりしも、このところの日本を覆う空気の重さや暗さに
いよいよもって居心地の悪さを感じ、
「これは本なんて作っている場合じゃない。早く亡命しなくちゃ!」
などと妄想にかられる始末。
さすがにこれは我ながらまずいと思い、
お茶の心大学の精神科の先生に相談したところ
「亡命したいと思った?! それなら異常ありませんね。
私ももう荷造り始めてますから」と言われて帰って来て、
ひとまず茶室で新茶を一服したところです。

<茶話その8 おおきに文化>

僕がこの10年近く住んでいる京都は、
日本の古都、日本人の心の故郷として時には憧れられたりもする街なのですが、
実は僕自身が感じる京都の一番の魅力は、
世界遺産に指定された寺社でも、山紫水明の景色や古い街並でも、
舞妓さんとのお茶屋遊びでもありません。
(山紫水明の景色や古い街並といったものはとっくの昔に消えましたし、
僕はお茶屋遊びの経験はありませんが。)
僕自身が思う京都の一番の魅力は、「おおきに」という言葉にあります。

「おおきに」は標準語に訳すると「ありがとう」「サンキュー」の意味です(註)。
僕が気に入っている点は、京都ではこの「おおきに」を、
お店で買い物したり、飲食した時にお客さんの方が口にするということです。
お店の人が「ありがとうございました」と言うのは全国共通、当然の話で、
もちろん京都のお店の人も言うのですが、
京都の場合はたいてい、まずお客さんがお店の人よりも先に「おおきに」と言うのです。
つまり「売ってくれてありがとう」「食べさせてくれてありがとう」といった意味あいです。
もっとも京都の人はもっと無意識に口癖や習慣のような感じで発しているようですが。
ですから、京都ではお店を出る時には、

客:「おおきに、ごちそうさん」店:「おおきに、ありがとうございました」

客:「おおきに、さいなら」店:「おおきに、またどうぞ」

客:「ほな、おおきに」店:「おおきに」

といった具合に、お客さんとお店の人の間で
延々と「おおきに」の応酬が繰り広げられます。
まあ、決して悪口を言い合っているのではなく、
あくまでもお互いに感謝の言葉なのですから、
僕はこういうのは多少繰り返されてもいいと思いますし、
お互いハッピーな気分でいられる言葉の応酬だと思います。

もちろん東京はじめ他の地方でも、
心あるお客さんは「ありがとう」ときちんと言いますし、
子どもたちがしつけの延長線で口にすることはよくあります
(バスなどで運転手さんに「ありがとう」と言ったり)。
しかし、京都のように大人の誰もが習慣として条件反射的に
「ありがとう」と口にするという例はあまりないのではないでしょうか。
(大阪の船場などの古いお店ではあるかもしれませんし、
決して全国調査したわけではないので、
もしそういう例が他の地方にもあったらゴメンナサイ。
それはとても素晴らしいことです。)
少なくとも僕が育った西宮(大阪と神戸の中間)ではそんな習慣はありませんでしたし、
東京に数年住んでた時もこのことを意識した憶えがありません。
いや、そう言えば、もしかしたらお年寄りの人たちは
条件反射的に「ありがとう」や「おおきに」と言ってたような気もします。
だとしたら、お客さんの側が「おおきに」「ありがとう」と言うこの習慣は、
もともとは全国的にあったはずのものが、どんどん各地で滅んでいき、
京都だけでかろうじて生き残っているということなのかも知れません。

とにかく僕は東京から京都に移住してきて、この「おおきに」がやたら新鮮に感じました。
そして、京都人入門の第一歩として、「おおきに」をマスターしようと思ったのです。
その甲斐あってか、今ではすっかり条件反射として「おおきに」と口にすることができます。
たまに東京出張の時、立ち食いソバ屋を出る時など、つい「おおきに」と口走ってしまい、
お店の人や他のお客さんにきょとんとされることもしばしばです。

ところで、この<おおきに文化>、世界に目を転じるとどうでしょうか。
これもまた世界中を調査したわけではないのですが、
多分ほとんどの国や民族で<おおきに文化>は生きているように思います。
少なくとも僕が訪れた国では、アジアもヨーロッパも北アフリカも、
みんな<おおきに文化>がありました。
パリのカフェでコーヒーを飲み終って出る時は、

客:「メルシーボーク−」(どうもありがとう)店:「オルヴォワール」(またどうぞ)

が基本のように思いましたし、バンコクの屋台で焼き鳥を買う時も、

客:「コップクンクラー」(ありがとう)店:「コップクンカー」(ありがとうございます)

だったように思います。
見方を変えると、日本という国は、
世界の中でこの<おおきに文化>を失った(あるいは失いつつある)
特別な国であるようにも思うのです。

最近ふと思ったことですが、この、お客さんの側から感謝を述べる<おおきに文化>は、
売り手と買い手がフィフティフィフティの立場であることの象徴ではないでしょうか。
お金を払うからといって、そこに人の心や尊厳の売り買いはありません。
お金はあくまでも商品や作業への正当な代価報酬にすぎません。
本来はそこに人としての優劣差や権力の有無は発生せず、
買い手と売り手は常に対等なはずなのです。
お客さんが発する「おおきに」はその対等性の証明だと思うのです。
僕は日本で<おおきに文化>が失われたことに、
日本が世界的にも希有な<消費主義国>であることの証拠を見るような気がします。
<消費主義>とはつまり、お金を使う人が何につけても優先されるという思想です。
日本ほど、お金を払う人間こそがえらい、
お金を使うことはひきかえに権利や権力を入手することだ、
と思い違いしている人が多い国はないと思います。

これは決して政治の話ではありません。
ごくごく身近な、僕達が毎日行っている会社や毎日している仕事の話です。
僕達が毎日目にしているメディアの背後の話です。
僕達が毎日暮らしている街の中の話です。
例えば喫茶店でも、コーヒーを注文する時に、「コーヒー。」とだけ言う人は多いですが、
これも相手(お店の人)を尊重する気持ちが心にあれば、「コーヒー下さい。」と言うはずです。
もし外国でやはり同様に「プリーズ」や「シルヴプレ」などの言葉をつけずに、
コーヒーを注文した場合、おそらくはまともなお客としての扱いを受けることはできないでしょう。
しかし日本ではすでにお客さんの側も、またお店の人の側もこのあたりの感性が麻痺しています。
<消費主義>にどっぷりと浸かってしまっているのです。
昨今の日本の心の闇を見るにつけ、
その病巣は案外こんなところにあるのかもしれないと思ったりもしています。
そう言えば高度経済成長の頃に「お客様は神様です!」
とプロパガンダした歌手がいました。
あの頃から日本の<おおきに文化>がどんどん消滅して、
消費主義へと傾いたのかもしれませんね。
(あ、そうか! 今の日本は実は「お客様を中心とする神の国」だったんだ。)

たかだか「おおきに」の一言であっても、お客さんの側がこれを言うことにより、
そこにはお店の人との間で、ごく小さいですが会話が成立します。
会話が成立するということは、たとえそれがほんの一瞬であっても、
見ず知らずの他者とリンクするということです。
あまり大袈裟に言うつもりはありませんが、
ひきこもりとかコミュニケーション不全といった問題に対しても、
かつて、この<おおきに文化>はそれを防ぐ
多少のトレーニング効果をもっていたような気がしないでもありません。

実をいうと、近頃は京都でも<おおきに文化>はどんどん滅びつつあります。
今の10代の人はあまり「おおきに」と言わなくなっているといった話も聞きます。
残念なことです。
しかし、その一方で<GAP>や<スターバックス>といった
若い人たちに人気のアメリカ商店が、
新しいマニュアルを日本に持ち込もうとしています。
これらのお店では、お客さんが入って来た時に「いらっしゃいませ」ではなくて、
「こんにちは」と声をかけます。
僕はこれはとてもいいことだと思っています。
「いらっしゃいませ」と声をかけられた時には、
これに返事する言葉が見当たらず、
お客さんは黙っているしかありませんが、
「こんにちは」には、簡単に「こんにちは」と返事することができます。
「おおきに」同様、ここにも売り手と買い手の対等性が感じられますし、
小さな会話も成立します。
資本主義の親玉であるアメリカからのマニュアルであるところに
いささか戦略性も感じたりはしますが、
消え行く<おおきに文化>の代わりに、この<こんにちは文化>が日本に定着するのは
悪いことではないなと思っています。


時節のせいなのか、僕の妄想のせいなのか、
今回は何だか、マークス寿子さんや永六輔さんのような内容の、
しかもやたら長々しい茶話になってしまいました。
もう少し手短な話題を、もう少しこまめに更新したいと
いつも思ってはいるのですが・・・。

とりあえず今日はこんなところでお開きです。
どうもお粗末様でした。
それではまた近々に(ホントかな?)

2000年5月26日
三枝克之

(註)

  「おおきに」は、その一方ではしばしば「ノーサンキュー」の意味にも使われます。
 「なあ、お茶、飲みに行かへん?」と女の子をナンパして、「おおきに」と返事された場合は、
 「ええよ」なのか「いやや」なのか、どちらの意味なのかは、相手の表情や言葉のニュアンスで
 判断するしかないという、いかにも京都的かつ日本的な曖昧で難しい言葉でもあります。

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