こんにちわ。お久しぶりです。
仕事が立て込んでたのと体調が悪かったのとで、
しばらくお茶会を休ませていただきました。
風邪がなかなか治りそうで治らず、無理してるうちに気管支炎になり、
おまけにほったらかしていた虫歯まで悪化してきて、つらい2週間でした。
ここ何年も風邪で寝込んだことなかったのに・・・。
やっぱり去年の夏、一度も海で泳がなかったのが悪かったのでしょうか?
「夏の間にたっぷりと潮水に浸かってたら、冬は風邪ひかない」
って言いますよね。
今年の夏はしっかり海で泳がなきゃ!
<茶話その3 春>
先日、本屋で立ち読みしてた本に、
「旅する」ことをタイ語では「風を食べる」と表現する、
と書いてありました。
気に入ったので、帰ってからさっそく半紙に
タイ文字チックな書体で「風を食べる」と書き、
軸に掛けて床に飾ってみました。
<いおり>の窓や戸口を開けると早春の清々しい風が入ってきます。
試しに大きく口を開けてその風を食べてみました。
なるほど、どこか南の国の味がします。
何だか<いおり>が『春の国』に向かって旅する
ボートのような気がしてきました。
今日のお茶はジャスミン茶にしましょう。
『どこかで春が』という童謡があります。
「どこかで<春>が生れてる、どこかで水が流れ出す。
どこかでヒバリが啼いている、どこかで芽の出る音がする。
山の三月 東風吹いて、どこかで<春>が生れてる。」
たったそれだけの歌詞なんですけど、
僕はこの詩が結構好きです。
きっと、「どこかで」というのがツボなんですね。
この無責任で、何ら確証のなさそうなニュアンスが
いかにも<春>らしいのです。
僕は<春>というのは、人々の他力願望の象徴だと思います。
つまり、自分の力ではどうしようもない<冬>の状態から
我が身を脱出させてくれる女神の到来を待望する人々の気持ち、
その気持ちが季節のサイクルという自然現象に託されたものが
<春>という言葉だと思うのです。
そんな他力本願的思想である<春待ち>の本質を、
「どこかで」は実に的確に表現している気がします。
このように考えると、
この童謡はたんに早春の情景を歌った歌としてだけではなく、
<冬>の状態にある心を励ましてくれる
素敵なおまじないのようにも響いてきます。
この童謡を口ずさむだけで、
心なしか気が晴れ晴れしてくるから不思議です。
この歌にかぎらず昔の童謡って、なんか心強いんですよ。
(そのことについてはまた次回に)
ちなみにこの童謡の作詞は百田宗治という方で、
大正12年の作品です。
少々突飛かも知れませんが、
僕はこの童謡の「どこか」を想像する時、
山里の雪解けの情景ではなく、なぜか、
ボッティチェリの名画『プリマヴェッラ』の
女神のイメージが頭に浮かびます。
もっとも、『プリマヴェッラ』では
春を運ぶのは東風ではなく、西風なんですが・・・。
今日のところはこんな感じで、お開きです。
どうもお粗末様でした。
それではまた近々に。
2000年3月14日
三枝克之
大家さんのてらぴかさんは今頃、どこかで
おいしい風をいっぱい食べてるんだろうなあ。
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