< 茶話 >
2000年3月1日

さっそく、たくさんの方々に<茶室>に立ち寄っていただき、
また御感想など頂戴し、どうもありがとうございました。
「うんちくがある」どころか、
編集者として恥ずかしいような誤字もあったりしますが、
そこはそれ、「不完全なものを心の中で完全なものにすること」
こそが<茶の心>ですので、
今後ともどうか暖かい心で見てやって下さい。

<茶話その2 いおり>

メールで送っていただいた天川の雪、
僕もさっそく庭の侘助の花に置いて眺めてたのですが、
飛んできたメジロがすぐに全部払い落としてしまいました。
メジロは一番好きな鳥なので、今回は執行猶予を与えましたが、
もう一度イタズラしたら、罰として50円切手に閉じ込めるつもりです。

さてこのたび、僕は居候の身ながらてらぴかさんに<いおり>をお借りし、
こうやって<茶室>を開いたわけですが、
ヴァーチャルとはいえ、これは僕が昔から憧れてたシチュエーションでして、
いわば夢がかなったような気分です。
じつは僕が大学生の時に下宿したのも、
母屋から離れて建っていた、昔茶室に使われてたらしいボロボロの<いおり>でした。
その軒先から屋根を見上げると、よくその上に月が見えたので、
『月下庵』などとひとり呼んでいました。
(もっともそこで日々考えてたのは女の子のことばかりでしたが・・・)

そんな僕の長年の<いおり>願望に関連して、
2年ほど前に京都新聞に書いた文章があるので、自己紹介がてら転載してみます。
ちょっと長くなって恐縮ですが、
よければヴァンショー(ホットワイン)でも飲みながら読んでください。


 この一年ほどずっと『万葉集』の中から人生や死をテーマにした歌を集め、それを写真と再構成する本を作ってきた。そのせいか、このところ人生や死についてしみじみと考えるようになった。千二百年以上前の超先輩たちによると、この世は仮の宿、はかない幻であり、人生は旅のようなものであるらしい。若いころなら「ふーん」で終わるところだが、三十を越えた今では「なるほど」と思ってしまうことが多い。

 僕は旅が好きである。旅では、今日何を食べるか、どこに泊まるか、何をして過ごすかを考えることだけが一日の仕事になる。いわゆる「食う寝る遊ぶ」の三つだが、よく考えるとこれは動物たちの営みと同じで、もっともシンプルな人生の過ごし方である。旅をしていると僕はこのシンプルな生活によって、自分が生きていることを動物的に実感できる。だから僕は旅が好きなのだ。

 できれば一生ただひたすら旅をして過ごしたいと思っている。しかしながら、当然この世ではお金がなければ生きていけないので、仕事はしなくてはならない。だから、旅をしながらお金になる、たとえば兼高かおるさんのような仕事はないものかな、と日々夢想している。しかし現実にそんなおいしい仕事があるわけもない。そこで考えた妥協案は、せめて毎日の日々の生活を旅の気分で過ごそうということである。

 日々の生活が旅ならば、なるだけ身軽でいることが必要だ。土地とか家とか会社とかモノに執着していては、荷物が多すぎて旅にならない。人生自体がいつかは失う仮ものなのだから、たいていのことは仮で十分。いつでも好きな時に好きなところへ好きな人と行けるのがいい。そして、その目指すところはいかに気持ちよく食べ、眠り、遊ぶかだ。仕事はあくまでもそのための手段の一つに過ぎない。ましてや仕事がうまくいくかいかないかは本来旅人には関係ないことである。要は毎日あちこちと動き回って色々な世界をのぞき、色々なことを体験し、色々な人との出会いを楽しむこと、それが肝心。そんな気持ちさえあれば、日常の中で旅の醍醐味を味わうことも可能だと思う。

 生きているかぎりこの世界を旅し続け、そして旅の途中で死ぬ。死んでからは引き続き、今度はあの世の旅を楽しむ。そんな生き方、死に方が僕の夢である。


今読むと我ながら、何をわかったように!と思ったりもしますが、
やはり僕の理想の境地ではあります。

というわけで、今日はこのへんでお開きです。
どうもお粗末様でした。
それではまた近々に。

2000年3月1日
三枝克之

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