服家小銀杏庵

 小話その2 

ハンケチ

*若者のファッションについて*

 << 今回のやさしい取り扱い説明 >> ・・・ 今回は、若者のファッションについて、と言うテーマに基づいて話していこうと思っていますが、「ウンウン」と共感される方もあれば、「小銀杏DEATH・・・」とお思いになる方もいらっしゃると思います。もしこれを読み終わってご自分の思いが後者でしたら、“服家小銀杏庵”の第一回をお読みください。

 本題DEATH。

 「若者」と一言で言ってしまうと、実は僕も世間から見られるところ、なかなかの若者ブリなのですが、僕がよく使う「若者」は中学・高校・大学生のことを指します。何故かと言うと、僕もこの頃は脂の乗り上げた「若者」でした。何が若いって考えが若かったんです。その考えとは、「自分の服装=自分の個性」と思って疑わない、というものでした。こういう風に考えている若者は、まだけっこういると思います。どのファッション雑誌を見ても、「個性的な服で今年もキメル」だとか、「街で見かけた個性派50人」(雑誌に載っていると違和感は少ないと思いますが、こんな感じで活字にしてしまうとフフフですね)だとか書いてありますものね。若者が挙って読んでいる雑誌がこう書くのですから、何も考えないまま、僕にも「服=個性」というような観念が生まれました(「植付けられた」の方が正しいかもしれません)。この考えから、僕は「服とは個性を表す物である」という考えに至り、固定されました。

 でも、今の僕の考えはまったく違うモノになっています。

 僕は何につけ疑うことが好きなのですが、記念すべき「初疑い」の題名は、自分の服装も含めた「若者の服装」だったのです。 〜何故このような服装をするのか? 何の為にこの服を身に着けているのか?〜

 「自分の服装=自分の個性」と考えていた、当時の「若者」の僕は、「自分をファッションセンスの良い人にみせたい、見てもらいたい」とだけ思っていました。その当時、僕はジャンルとしては主にアヴァンギャルドな服を着ていたのですが、他の人達が僕の服装を見て言う言葉は、「個性的な服装だね」だとか、「個性派ですね」というようなものでした。僕はそれでいい気になっていたのですが、ある時、スコンッと思いつきました。そうなんです。僕の服装を見た人達は、「個性」ではなくて、「個性的」・「個性派」であると言っていたのです。な〜んださうか! 人が人物を見たときに服装から見て取れるものは、「その人物の個性」ではなくて、ただ単に「個性的な服を着ている人」、または「個性派と言われている服を着ている人」のように、つまるところ外面的なものでしかなかったのです。視覚的なものですから、「自分をファッションセンスの良い人にみせたい、見てもらいたい」という考えには功を奏するでしょうが、服はその人の個性まで表すことの出来るものだと考えていた僕は、自分の考えが驕っている事に気付きました。

 だったら個性の見えやすい服装はどのようなものか? と考えた時、シュコッと頭に浮かんだのが、「制服」でした。

 「個性」とは内面的なものだと、僕は考えています。制服を着るということは、ですから、外見が皆同じな分だけ「個性」も見えやすくなるということなのではないか、と思うのです。制服に対しては、皆さんそれぞれに色んな考えをお持ちでしょう。しかし、今の学生がどう考えて制服を着ているかという事を考えた時に、彼・彼女らは皆さんの思っているような事を考えて制服を着ているのでしょうか? おそらくです。正規の制服をきちんと身に着けている学生を傍目から見ながら、だらしなく制服を着ている学生は、ただ「服=個性」と考えて、自分たちは自由だと他に見せつけたいだけなのです(僕もそうでした)。あまり深く考えることもせず、与えられた物を着るか着ないか選択するのではなく、(着ないという選択が有り得るにもかかわらず)制服を着るということはそのまま受け入れ、その中でどれだけ自分を目立たせるか、と言うふうにしか考えていないのではないでしょうか? そんなものは自由でもなんでもありません。本当に真剣に制服について考えている学生が、実はこの事についても一番自由だと思います。ある物事について考える時、時代がどうこう、背景がどうこうと第三者が考えるより、まず本人達、制服については学生達ですが、彼達がどのような考えを持っているかが重要なのではないかと思っています。話がそれましたが、要するに私小銀杏は、「個性とは、何を着ていても染み出してしまうものであり、服はそれを吸い取る事も出来なければ、搾り出す事もできない」という考えに至ったのです。

 若い人達の服装を見て何時も「もったいないなぁ・・・」と感じます。どうしてあんなに着飾るのでしょうか? どうしてあんなに高い服を着るのでしょうか? 昔から「若い人は何を着ても良い」言われていますが、この言葉に僕は賛成です。でも、あなたがお洒落だなぁ、素敵だなぁと思っている国の若者は、日本の若者のように高い服を着ているでしょうか? 着ていませんよね。では、何故彼らは高い服で着飾ったりしていないのに、お洒落に見えたりするのでしょうか? この疑問に対する僕なりの答えは、次のようなことです。つまり、そういった国の人達は、年相応の服装をしているから素敵に見えるのであって、言ってみれば、彼らは普段街に出たりするときの服装のことなんて、特別に深くは考えていないのです。

 また、なぜ日本では高い服で着飾っている若者が多いのでしょうか? これは別に、日本の生活水準が高いが故に若い人でも高い服を着ることが出来るからというわけではなく、実は「コレクション」のせいなのです。

 海外では20代後半からをターゲットとしてコレクションを展開していますが、日本で展開しているコレクションは10代からをターゲットとしているものが多いのです。そのせいで、日本のコレクションは日本の雑誌などでは大きく取り上げられてますが、海外ではあまり注目されていません。だから、10代や20代の若さの人達が高価な服を着て街を歩いているのは日本ぐらいなんです(日本特有だからといっても、これは文化ではありません。だって洋服は日本古来のものとは違いますからね)。

 パリ・ミラノ・ロンドン・ホンコンなどは世界に向けてコレクションを発表しています。マーケットを自国だけに限定せず、世界をターゲットにビジネスを行うためです。だったら何故日本だけ海外と孤立したコレクションを展開していくのでしょうか? それは単に、展開する必要が無いからです。コレクションは流行を発表する場でもあります。若く、流行に敏感な人達はそれに飛びつきます。新しい服を考えて世界に向けて販売しなくても、流行さえ作り出してしまえば、日本では服が売れるのです。アパレルメーカーにしてみれば簡単な事です。この辺の仕組みについてはまたジックリと書くつもりですが、とどのつまり、「流行は服ではなく流行でしかない」のです。流行に敏感で、流行を着て歩くのが良い事なのでしょうか? 僕はそうとは思いません。

 若い人! 一緒に疑いましょう!! 疑う事が出来る、考えて選択する事が出来る、こう言うのが自由って言うんじゃないかなぁと思います。流行は眺めてから疑ってみましょう。そして、反対もしくは3周半って何なのか、一緒に考えてみましょう。楽しいですよ。

 今回は脱線しっぱなしでしたが、最後まで読んで頂いて感謝致します。

 それではまたの登場まで。小銀杏でした。

ハンケチ

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